文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小泉をどう理解するか?

(読者からのコメントより。↓↓↓)

【 名 前 】高橋
【 住 所 】静岡県
 つぶさに調べてはいませんが、小泉純一郎氏に対する見解は、
保守論壇の間でも擁護派と反対派の二つに分かれているようで
す。両者とも、さまざまな視点で言っており、それぞれの論理は
持っています。

 大雑把に考えるんですが、論理展開や論理構成がどのように
しっかりしていても、非の打ち所のないものであっても、それだけ
ではことの本質を表現できないと思います。論理はあくまでも表
現手段であって、ことの本質ではありません。

 ロジックの前提には「論理基盤」という先験的な直観があります。
この論理基盤の内実は、明らかに論理ではなく情緒、すなわち
感情だと思います。よく、日本人は論理的ではなく情緒的な民
族だという言い方があります。論理か情緒か。私はそういう二項
対立的な言い方自体が奇妙だと考えます。

 論理の前提に感情ありきです。人が百人いれば、百通りの論
理基盤がある。それは百様の前提的な感情があるということです。
議論、すなわち意見や思想を闘わせるということは、感情と感情
の衝突、異なった論理基盤同士の衝突ですが、それでは水と油
で平行線です。

 有効な議論というものは、互いにまったく異なった立場にあって
も、表現としてのロジックに必ず意見の「共有領域」というものを
作っているような気がします。意見のインターフェースです。それ
はけっして同調ではありませんが、人としての「態度として」の協
調技術と言うべきでしょうか。そういう意味では西尾幹二氏など、
すぐれた方々の表現様式にはそういう領域性が決定的にあるよ
うに思います。それがあるからこそ、立場の違いはあっても、触
発され、喚起され、あらたな広がりが生まれます。だからこそ、
そこには品格の高い論評空間が生まれるのだと思います。

 意見でも、世界観でも、言葉で表現可能な世界にはこの共有
領域の提示は必要であり、言語コミュニケーションにおけるマナ
ーではないでしょうか。これを無視して突っ走ると奇態な表現形
式だけが残ってしまうことになります。「朝まで生テレビ」のテー
マが、いつもとんちんかんに発散してしまうのはこれがないから
です。

 さて、長々とこんなことを述べたのも、私は今の日本を席巻し
ている擬似的な保守論壇、すなわち排外主義的な保守思想や
アメリカべったりの保守感覚が、過(あやま)てる日本を作る危
険性を指摘したいからです。小泉首相のワンフレーズ・ポリティ
クスは、典型的な「合成の誤謬」を誘引するキーワードになって
います。単純な物言いはたしかにわかりやすいし、ブレない一
貫性を国民に感じさせるかもしれません。しかし、彼の単純な
言語表現の集積は、全体から見ればなんらまともな意味を形
成しておらず、起こる政治的な方向性は、合成の誤謬へと傾斜
しています。政治家として有能な者は、全体を把握する直観
力に秀でており、これが合成の誤謬的傾斜を防いで国政を常
道に導くのではないでしょうか。

 我が国の現役首相には全体を把握する力が最初から決定的
に欠如しています。その結果、国家の持つ民族自決的なエント
ロピーがはなはだしく増大してしまいました。このまま。彼を放置
しますと、日本の自尊性が完全に消滅しかねない状況にあるん
じゃないでしょうか。