文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」です。 (「月刊日本」12月号から)

「文藝と哲学を知らずして政治や経済を語るなかれ…」・・・。というわけで、毎月、「月刊日本」に掲載している「月刊・文藝時評」をアップ。純文学系の雑誌を中心に論じたものです。文芸雑誌では、今、何が語られ、どういう作品が書かれているのか…。文学嫌いの人も、ちょっと覗いてみてください。

山崎行太郎の「月刊・文芸時評」      


渡部直己の新シリーズ「面談文芸時評」(新潮)に期待する。
 渡部直己をホストに、小説家をゲストとして「面談」形式で時評するという、風変わりな新シリー ズ「面談文芸時評」(新潮)が始まった。まだどういう種類の「文芸時評」を目指すのかは定かではないが、また第一回目を読んだ限りでは、多くの欠陥も露呈しいると言わ ざるをえないが、しかし私はこういう「文芸時評」というジャンルを復権させる新企 画には大いに賛成し、期待するものである。今、文壇や文学に欠如しているのは、どんな高級 な文学論でも、またどんなに精緻な作品論や作家論でもなく、毎月毎月、発表される 小説や批評に対して批評家が真剣に対峙する感想や批評、つまり「文芸時評」であろうと思われる。私の愛読書の一つは川端康成の『文藝時評』(講談社文藝文庫)だが、その種の「文芸時評」が新聞や文芸誌から消えて久しい。「文芸時評」が消えたのは、「純文学と大衆文学の境界はなくなった・・・」といわれ始めた頃のことだろう。それが文学の衰退と地盤沈下と連動していたことは言うまでもない。言い換えれば文学の復権と復活は「文芸時評」の復活から始まるはずだ。
 小説と批評が交流し、衝突し、やがてそれが文学論争にまで発展していくところに 文学の生命線がある。それが失われたところに文学の衰弱と沈滞の根本原因がある。 ただ漠然と小説家が小説を書き、それを編集者に毛の生えたような批評性を喪失した ジャーナリスト的文芸愛好家たちが、編集部や作者の顔を伺いながら、お世辞と追従を 繰り返すだけの昨今の批評的状況は不毛であると言わざるをえない。つまり文壇や文芸誌にまともな批評家が、つまり批評と言う仕事を生活の糧にするような批評家が存 在しないのだ。文壇内外に横行しているのは、いわゆる「アルバイト批評家」ばかりである。まともな批評家は一人もいない。批評家の消滅が文学の衰弱をもたらしている根本原因であることは今更言うまでもないことだろうが・・・。
 最近、小説の方では、阿部和重青山真治中原昌也等、重厚な作風の新人作家た ちが台頭し、文学の復権と同時に、明らかに世代交代が進行しつつあるが、それに対応するような批評家たちの存 在が見えてこない。相変わらず、出版社や編集者の顔色をうかがうようなエッセイストかコラムニストのような評論家しかいない。
 今月も、若手の文芸評論家たちの評論作品を読むことができたが、毒にも薬にもならない評論ばかりで、作文のレベルを超えていない。つまり、そこで論陣を張り、ここに一人の批評 家がいる、という存在感のある批評家がいない。批評家としての力強さが感じられないのだ。要するに顔の見えない評論ばかりで、文章の背後から批評家の顔が見えてこないのだ。言い換えれば、「2ちゃんねる」の「ドシロート批評」にさえ負けているのだ。そ れが、「2ちゃんねる」経由の「盗作騒動」に文壇や文芸誌、文芸編集者が、いとも簡単 に振り回され、屈服させられる原因だろう。
■なぜ、「空疎な美文調の言葉使い」が必要なのか? 
 さて、渡部直己の「面談文芸時評」は第一回目の面談者は映画製作から作家に転じ、今は映画と小説を兼業する青山真治だが、その第一回目を読んだだけでも渡部直己の「面談文芸時評」の欠陥は明らかだ。それは渡部直己の、新鋭作家に対する馬鹿 丁寧な、まるで皇室関係者に対するような「空疎な美文調の言葉使い」にすでに露呈して いる。  渡部直己と言えば思い出すのは、10数年前に「すばる」に連載し、文壇や作家達を震撼させた「○×文芸時評」(?)だが、その頃から渡部直己の時評や批評には、お気に入りの特定のニ、 三の作家(たとえば中上健次金井美恵子・・・)への無条件の絶賛・賛美と、逆にそれ以外の作家や作品に対する激しい  品を貧しいものにしており、結果的に作品が一時的には話題にはなるが、その後それほど読まれなくな る、つまりそれほど高く評価されない理由でもあったと思われる。
 今回の企画も新鮮でスリリングなものだが、しかし冒頭にこんな文章がある。
 《ここニ、三年、あなたもご存じの何人かの作家や批評家から、折りにつけ、まるで 新種の時候の挨拶のように耳にする言葉があります。「困ったことに、書くほどに青 山真治は上手くなる。」もっとも、映画にも親しい他の人々とは異なり、わたしはそ の言葉を、むしろ単純な驚嘆とともに共有する者ですが、実際、非礼を承知で申し上 げれば、ご自身のフィルムたいし、多分に愚直な「翻訳」と「補足説明」に終始した 感のある小説『ユリイカ』(2000年)と、たとえば先頃上梓された短編集『ホテル ・クロニクルズ』(05年)を、同じ人間が書いたとはにわかに信じがたい。》
 《現在日本の文学風土については、また、そのなかでのご自身のお仕事の意義につい てどうお考えでしょうか? いくつかのご発言は承知しておりますが、この機会に改め てご存念を従横にお聞かせくだされば幸いです。》    
 舌を噛みそうな言葉の連続だが、こういう「お上品な・・・」、「荒唐無稽な・・・」「心にもない…」「浮いた…」言葉を羅列することによって、渡部直己は何が言いたいのだろうか。文学や批評 は、皇室や高級エリート官僚・・・等にも匹敵するものだとでも言いたいのだろう か。それとも某批評家(蓮実…)の系列に連なるという出自と系譜を自己確認(自慢・宣伝?) したいのだ「罵 倒批評」を高く評価するが故に、ここで使われている卑屈ともとれるような「お言葉」や 「お仕事」や「ご存念」という言葉の使い方に違和感を感じざるをえない。それは究極的には渡部直己の批 評そのものへの違和感でもある。渡部直己は、青山真治を相手に、「物語批判としての小説」という話をしている が、渡部直己自身の使う言葉や語り口に対しても「物語批判」を徹底してもらいたい と思うのだ・・・。
 と、言いながらも私は、三浦雅士加藤典洋の凡庸な批評的才能よりもはるかに高 く、渡部直己の屈折した批評的才能を買っている。その意味で、渡部直己の「面談文 芸時評」(新潮)に期待せざるをえない。『青春の終焉』や『テクストから遠く離れて』など、三浦雅士加藤典洋の長編評論は文壇内外でかなり評判がいい らしいが、私はそれほど高く評価しない。これらは、俗受けする大味な状況論であり、情勢論であって、文藝批 評という名に値するとは思わない。私は、彼らの長編評論を読みながら「批評の読物 化」「批評の物語化」とでも批判したくなる。そして言いたくなるのだ、「ここには批評がない」、と。そういう意味では、渡部直己の書くものには少なくとも批評らしきものがあることは間違いない。
平野啓一郎の小説と評論は批評的か。
 平野啓一郎が、今月も中編小説「顔のない裸体たち」(新潮)と長編評論「三島由紀夫金閣寺』論」(群像)を書いているが、意気込みの割には、心を打つものがない。 優等生の作文の枠を超えていないように見受けられるが、どこにその原因はあるのだろう か。 それは、平野啓一郎が、必要以上に現代の社会や風俗に依存しているからではない かと私は思う。平野啓一郎という作家は、ヨーロッパ中世の宗教生活や芸術家の生活を緻 密に描くことで作家としての才能を開花させてきた作家である。いたずらに現代文学 の最先端を気取って、日本の現代風俗、たとえばネット、掲示板、書き込み、テレク ラ、出会い系サイト、アダルト・ビデオ、電車内の痴漢で逮捕されたという国立大学 の教授のニュー・・・に過剰に依存するこの小説のような作り方は得策ではない。 作家として試行錯誤を繰り返すことも必要だろうが、やはり自分のスタイルやテーマ を安直に取り替えるのはよくないのではないか。特に平野啓一郎のような作家の場合 は…。平野啓一郎は「三島由紀夫の再来」と言われたこともあったが、そして平野啓一 郎自身もそのことを強く意識しているようだが、もしそうだとすれば、むしろ三島由紀夫的な古典的なスタイルとテーマを徹底して追求していくべきではなかろうか。素材としての現 代風俗にこだわりすぎると、結局、素材に負けて、いわゆる通俗小説しか書けなくなるだろう。現在の平野啓一郎にはその危険性がある。
 たとえば、この小説の主人公は、埼玉県生まれの女性中学教師だが、大学性時代に処女を失った相手の「彼」について、こんな文章を書いている。
 《群馬県出身の、》
 この文章は、明らかに通俗的なイメージ思考の産物と言っていい。これが、平野啓一郎にも縁のある「福岡県」や「京都府」だったらわからなくもないが、しかし、 「垢抜けのしない身形の学性」が「群馬県出身」では話がうまく出来すぎだろう。平 野啓一郎の文学的思考の凡庸性と通俗性がここに強く感じられる。
 この小説のストーリーは、テレクラや出会い系サイトを使って女を物色し、遊び暮 らしている男と出会った女性中学教師が、その男に振り回されるうちに、とうとう 男の母校の小学校に乗り込み、裸にさせられて、そこでエロ写真を撮影される・・・。男は教師に見つかるとナイフを振り回し、そして逮捕後は、中学教師で露出狂の女としてマスコミの餌食になる…。 おそらく最近起こった事件をヒントにして書いたものだろう。
 この小説を書く一方で、平野啓一郎は、金閣寺放火事件をモデルにして描いた三島由紀夫の「 金閣寺」論も書いているが、その理由は明白だろう。平野啓一郎は、ここで、この小説の作り方と描き方の文学的、方法論的根拠を明らかにしたかったのだろう。しかし残念ながら、三島由紀夫の『金閣 寺』にあった「恐ろしい美学」が、平野啓一郎の作品にはない。小説も評論も、単なる風俗小説、風俗批評の枠を出ていない。
さて最後に、若い批評家の一人、中島一夫が書いた「嫉妬と民主主義」(新潮)が、短いいものだが面白かった。今回の総選挙における「小泉大勝」の背景にある若者達の「公務員」という手の届く隣人への「嫉妬の構造」を抉り出していているのだが、最近、連続する「似ている」というだけで騒ぎになる「盗作騒動」も、この「嫉妬の構造」という観点から読めるのではないか、と私は思った。
たとえば、先月は見過ごしたが、片岡直子の「インスピレーションの範囲」(文学界11月号)なども、「嫉妬」の産物以外の何物でもない。小池昌代の小説や詩が、先行作品の模倣やパクリである、と告発した文章だが、その論拠が「オリジナル」論では話にならない。小林秀雄も言うように、「芸術は模倣から始まる」のだ。




←文藝と哲学を知らずして政治や経済を語るなかれ……と思う人も思わない人も…(笑)。