文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

西村真悟の自伝的エッセイ「僕の生い立ち」から…(↓↓↓)。

僕が感動するのは、こういう話だ。
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京大法学部時代の西村真悟氏と父・西村榮一

■ 疾風怒濤前夜 1

 さて、昭和三十六年に中学校に入ってからの僕が見た風景は何か。
 いよいよ、その「時代」つまり日本という国家の国内国際政治情勢と関係してくる。その世相は、前年の六十年安保闘争、浅沼社会党委員長刺殺、岸内閣退陣、池田勇人内閣誕生からの所得倍増・低姿勢と目まぐるしく移っていったのが年表的理解である。その間に民社党結成がある。
 ここで、父と母のことに触れておく必要がある。僕は、この父と母がいなければ生物的にも社会的にも、存在しなかったのだから。

京大時代父と
 僕の父は、明治三十七年に奈良県下五位堂村に生まれ、六歳の時生家の破産により、単身丹那トンネルの無かった東海道を経て東京に出て、そこの親戚の家に預けられ成人した。
 したがって、小学校しか出ていない。しかし、働きながら勉強し、一高から東大を目指したという。
 夜始まる予備校でよく寝てしまっていたところ、先生が立派な人で、「西村君、君は決められた学校に行く必要はないよ、君の感覚を信じて自分で道を切り開いて生きなさい」とアドバイスしてくれたという。
 
 父は僕に、自分の強さは、正規の学校を出ていないことで、既存の発想に縛られないことだと語ったことがある。
 奈良の父の生まれた村に父と共に行ったことがあるが、恵心僧都源信の生まれた村だった。父の家は跡形もなく、父が母と別れたというお寺の境内は、父には五十年以上昔の僕の上野芝の風景のような感慨を誘ったであろうが、親子は無口でありそれは聞いていない。
 我が家の先祖の墓石が並んでいたが、その横には相撲取りの墓やら義太夫語りの墓もあった。母によると、父の家は親分肌の当主と、遊び人の当主が代わる代わるでる伝統があって、父の父つまり僕の祖父は、金と暇があれば幸せという人生だったということだ。しかし、彼は昭和八年に死んでいるので僕は知らない。相撲取りや義太夫語りをひいきにして生涯面倒をみた先祖は、この金と暇があれば幸せという代であったのだろう。
 父の家が破産したのは、父の祖父の代だ。彼は、奈良県下に電線を引く工事を請け負い、多くの電信柱の用材を購入して工事を開始しようとしたが、用材の価格が暴騰した。請負代金の範囲では工事が無理となった。しかし、父の祖父は、お上との約束は守ると言って私財をつぎ込んで電信柱を約束道理たてた。それが一家破綻につながったと聞いた。当主は久太郎といい、戦前までは鍵のなかに久と書いた「鍵久」のマークのはいった電信柱がみられたと母が言っていた。
 父は、俺の先祖は南朝守良親王と共に戦い破れて奈良に土着したといささか得意げに言っていたのを思い出す。きっと破産前の六歳までの時に父は祖父からそのように聞かされていたのだろう。
 
 父の性格は、明治生まれに多くみられる激情と六歳からの生い立ちによる屈折がミックスして子供心にかなり凶暴にみえた。どつき始めたら止まらなくなる。ぼくが乱視になったのは、父にどつかれたからではないかと思っているほどだ。どつかれて目が腫れ上がったことがあったからだ。
 しかし、僕はこの父に天下国家のために生きるというエネルギーを感じ尊敬していた。
 父は戦前、サラリーマン同盟を結成し、特高に追いかけ回されたことがあったが、「大東亜共栄圏」の建設に三十代と四十代前半を費やす。父を追いかけ回した特高刑事は父の支持者に替わっており、僕は父のなくなった後その人を訪ねたことがある。
 父は、少年期に上海で学んだことがあり、その時の上海に生きる中国人が西欧人に人間として扱われず犬と同様に扱われている光景を見ていた。青春の父の脳裏にアジア人の解放のための西欧植民地打破の思いがわき起こったのだった。それ故、アジア人がアジア人自身で共に栄える、つまり大東亜共栄圏の建設こそ青春の父を駆り立てたのだろう。父の青春時代は、日本以外のアジアは総て自立できず欧米の植民地であったのだ。父は、民間人として台湾・ベトナムなどをまわり産業基盤の調査等をしていたようだ。
 
 戦後父は、西尾末広などと共に、共産主義労働運動を防圧するための民主的労働運動の建設に乗り出す。それは、右派社会党から民社党に至る路線である。
 この時、戦前の同志、岸信介などと申し合わせがあったと思われる。その中で、父などは民間における共産主義労働運動をつぶす運動を担当したことになる。芦田内閣、片山内閣のとき佐藤栄作池田勇人などが父などがいる現与党から代議士に出馬する動きがあったとき、父などは巣鴨にいる岸信介とも相談させ、いわゆる保守の路線を選ばせている。
 戦後の池田内閣ぐらいになると、官僚出身者は保守党からという路線は既定のようになってきたが、戦後直の芦田・片山内閣あたりではそれは何も既定のものではなく、官僚群はどこから代議士に出ようか、巣鴨と西尾や父に相談に来ていたのだ。それを交通整理したのが父などであるが、その基準は、祖国日本の政治構造の建設という遠大な構想である。
 ソ連の崩壊、冷戦の終結後の現在からみれば急速に忘れ去られているが、戦後日本において共産主義と対峙することは国家の運命をかけた課題だったのだ。ソ連は紛れもない強国であり、中国大陸は共産党が武力で制覇し、朝鮮半島は半分が共産化され、半島全体の赤化を武力で仕掛けてきていた。
 国内では、コミンテルン日本支部つまり日本共産党がこのような我が国周辺の共産主義権力と呼応して暴力革命路線を鮮明化して実力闘争を仕掛けてきていたのである。
 民間の会社が共産主義労働運動に席巻されれば、日本の産業がつぶれ日本が崩壊する。よって、この歴史段階における父の政治家としての大きな背骨は共産主義との戦いで貫かれていた。
 
 このような情勢下で、日本の政治とマスコミの風潮とは何であったか。それは何時も共産主義の本質を見誤っていた。ソ連・中国・北朝鮮は理想の国家とし、韓国は軍国主義であり人民の敵であった。北朝鮮は、楽園でありマスコミは日本からその楽園に帰ることを奨励していた。
 原水爆禁止運動は、ソ連や中国の核実験は共産主義者保有する核は「よい核」だとし、アメリカや西側の核だけの禁止運動であった。野党第一党の党首は北京で「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共通の敵」と演説し、マスコミは、昭和四十年代になっても中国の文化大革命を賞賛していたのである。さらに、これの模倣であるカンボジアポルポト政権の行いをつい最近まで賞賛していたのが日本のマスコミであったことを忘れてしまってはいけないのである。したがって、繰り返すが、僕の父の政治家としての主題は共産主義との戦いであった。
 僕の父が、このような政治家で、僕もいま衆議院議員だから、僕は二世議員ということになる。しかし、いま国会にいる二世議員三世議員のなかで、共産党のデモに家が囲まれ石が投げ込まれた経験を持っているのは僕だけだろう。僕はそのとき、共産主義者が一歩でも僕の家に入れば、木刀で殴りつけようと待ちかまえていた。
 
 この父は、昭和四十六年四月二七日に亡くなる。六七歳だった。僕は二二歳だった。
 亡くなる二年前の夏、僕たち家族は、父と最後の一泊旅行をした。父は、愛知県の蒲郡で大阪から来る母と兄そして僕を待っていた。その日、父は、この蒲郡沖で若い頃死のうと思って海に飛び込んだことがあったといった。しかし、沈もうと思っても浮かび上がり、思い返してまた生きたという。はっきり言わなかったが大正年間、株屋の小僧から相場師のやり方をみよう見まねで学んだ父は、一夜で当時の金で数億円を稼ぎ、また一夜で数億円をすったという。それで悲観し馬鹿らしくなったのか、蒲郡まで来て海に飛び込んだらしい。
 父は、いきさつは詳しく言わないまでも、かつて自分が一度は死にそして再生して上がってきた蒲郡の夏の海を眺めながら、「お前との今生での縁は短かったなあ」と独り言のように言った。母は、縁起でもないことをと笑いながら言ったように思う。
 僕は、その時、父の言ったことを真に受けた。何時死ぬか分からない人生において、父は任務の中で死のうとしていると感じたからだ。そして、それは男にふさわしい死なのだと思ったのだ。
 
 それから父は、戦後の廃墟に中で再建しようとした日本の議会政治が、いつの間にか、国家のために志を一にする共通の思いから離れ、与野党両者既得権保持のために、片や現状保持片やイデオロギー的野党という惰性に陥った惨状を打破するため政界再編成の動きを開始する。体内を侵攻する癌を持ちながら再編運動と選挙のため先延ばしした手術を終えたのが蒲郡から八ヶ月後のことであった。
 手術後も忙しく全国を動き回り、堺の自宅を最後に出たのは前年の一一月三日文化の日明治節であった。
 そして、再び堺には戻らなかった。
 堺の自宅を最後に出る父は、ニュースで棟方志功文化勲章を受けたことを喜び玄関をでた。その時玄関に僕の知らない初老の人が駆けつけてきた。街頭でみた父の顔色が悪いので心配して会いに来たという。父は暫く玄関前で話していた。彼が帰った後、父は僕に、彼は若い頃の実業家仲間で、彼はその頃は意欲あふれる青年実業家だったんだと言ってほほえみ車に乗りこんでいった。その時の笑いは、初老の友人に久しぶりにあったことの喜びよりも、情け容赦なく奪う時間への苦笑のようで寂しげであった。
 
 東京に出た父は、入院先から出られなくなった。
 死亡した直後、僕は病院の階段を駆け上がり屋上に出た。そして、空を見上げた。父は、ここに昇っていくのか。
 青い空に浮かんだ白い雲は何事もなく、僕の上に広がっていた。





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