文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

石原慎太郎と福田和也は、なぜ、元気がないのか?

あれほど、マスメディアに出ずっぱりで、政治から文芸まで、ひたすら書きまくっていた(喋り捲っていた…?)福田和也の影が、最近薄い。たしか「週刊新潮」や「スパ」「新潮45」等の連載で忙しいのだろうが、しかしそれにしても、最近の福田和也の文章から、一頃の華々しさと禍々しさがなくなって、凡庸な中年オヤジのボヤキ漫談に堕落しつつある。一種の「燃え尽き症候群」と言っていいのて゜はないか。福田和也に代わって登場してきたのが、遠藤浩一宮崎正弘と言うような、地道に保守思想を構築してきた人達だ。言い換えれば、一見地味だが、遠藤浩一宮崎正弘等が台頭してきたことによって、もっぱら若手代表として論壇や文壇を支配する老人達に可愛がられて、それを武器に活躍してきた福田和也の存在価値が急速に下落しつつあるということだろう。つまり福田和也がここ10年ぐらい言い続けてきたことは、すっかり常識になってしまったということだ。福田和也の出番が減り、福田和也の言説から輝きがなくなっていくことは当然なのだ。さて、その福田和也が、批評的衰弱を象徴するような対談を、石原慎太郎と行っているのを、先日、本屋で立ち読みした。「正論」の「漂流国家よ・・・・」という対談である。正直に言ってガッカリし、絶望的な気分になった。石原は、「編集部は自分に勇ましい発言を期待しているだろうが、…」と前置きして、つまらない言い訳とボヤキを繰り返している。先日来、僕は、石原慎太郎の本質は「私」の人であって「公」の人ではない。それを勘違いしたのが亀井静香平沼赳夫の失敗の原因であると書いてきた。日頃の石原慎太郎の威勢のいい発言に期待している保守派は少なくないだろう。遠藤浩一宮崎正弘等とともに、最近、論壇でその発言が注目されている若手論客で、僕の友人でもある政治評論家・藤井厳喜には、『石原総理待望論』という本もあるぐらいだ。「時が来れば必ず立つ男…」だという期待感である。しかし、この福田和也との対談を読めばわかるように、石原慎太郎は「家族思い」の「マイホーム・パパ」にすぎない。つまり「公」の人という外見は見せかけで、本質は「私」の人である。中川一郎亡き後、その派閥を引き継いだにもかかわらず、勢力拡大どころか維持すら出来なかったのは、そこに原因がある。しばしば石原慎太郎の発言が過激になるのは、その私的本質を隠蔽するためにすぎない。要するに、石原慎太郎は「天下国家」のことなど考えていない。「自分の二人の子供が、小泉改革派の自民党代議士になってくれればそれでいい…」という人である。そういう人が小泉構造改革を批判したり、小泉内閣への倒閣運動などできるわけがない。そのマイホーム・パパ的な「私的本質」は、「日本人よ、成熟せよ。」と説く福田和也にも共通している。命を捨てる覚悟が出来ていないのみならず、家族を捨てる覚悟なども微塵もない。福田和也の言説が色褪せつつあることともそれは無縁ではない。ホンモノの保守思想家たちの台頭で、石原慎太郎福田和也の、外見は威勢がいいが、中身はスカスカの「思想的メッキ」がはがれつつあるということだろう。むろん、その正体が暴露され、思想家としての価値が下落することはいいことである。いずれにしろ、石原慎太郎福田和也三島由紀夫江藤淳ではない。「生命尊重のみで魂は死んでもよいのか…」。家族思いの「私益主義者」に政治や文芸を語る資格はない。「出家」と「世捨て」こそ、政治や文芸の原点である。






↑↑↑
この記事に「ピーン」ときたら、ここをクリックしてね。



■コメント欄に、経済学者・丹羽春喜等(日本経済再生政策提言フォーラム)からの、今回の衆議院議員選挙への緊急アピールをアップしました。是非、ご一読を…。↓↓↓