文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

大江健三郎と曽野綾子の「沖縄戦争」



 大江健三郎の『沖縄ノート』は『ヒロシマ・ノート』に続いて刊行されたもので、実は僕が「大江健三郎嫌い」になるきっかけになった本である。昭和41、2年ごろ(正確には1970年9月21日刊…)のことだ。それまでは、僕は大江健三郎の熱狂的な愛読者だった。古書店大江健三郎関連の古書や雑誌を漁り、一方では大江健三郎の出る講演会等を探しては日参していた。寝ても醒めても大江健三郎という時期があったが、実は僕にとってはその時期がすべての原点である。僕は、大江健三郎という作家を通して文学から思想、哲学、政治を学んだ。ドストエフスキーサルトル大江健三郎経由で知ったと言っていい。最後に熱中した本は、『厳粛な綱渡り』というエッセイ集だった。この本は、出るのが待ちきれず、何回も何回も本屋に足を運んだ覚えがある。さて、『沖縄ノート』のことである。昨日の産経新聞によると、大江健三郎岩波書店が、「沖縄戦」における集団自決に関する記述の誤りで名誉を傷つけられたと、当時の指揮官の遺族から告訴されたという。当然と言えば当然のことだろうが、それにしても、なぜ、今、大江健三郎岩波書店が告訴されたのだろうか。『沖縄ノート』の刊行は、40年前後も前の話だろう。実は、僕は以前から、終戦記念日が近づくと必ずマスコミが取り上げる沖縄戦の「ひめゆり神話」に疑問を感じてきたが、大江健三郎のことはあまり考えなかった。沖縄と言えば、大江健三郎以外にも、多くの文学者が沖縄にわざわざ移住したり、長期滞在したりして話題になった。そしてその影響もあって、沖縄から多数の芥川賞作家も登場している。僕は、これらも、かなりインチキ臭い話だと思っている。「沖縄文学」は「在日文学」とともに、「ポスト・コロニアリズム文学」として必要以上に持ち上げられ、過大評価されてきたというのが、僕の考えだ。さて、大江健三郎の話だが、大江健三郎が告訴されたという話の後に、曽野綾子が、この集団自決の問題を取材・調査して一冊の本にまとめた『ある神話の風景』(註ー正確には『ある神話の背景』??)のことが付け加えられている。むろん、「善玉の文学」としてである。現場の指揮官の命令による集団自決という話は、遺族年金欲しさから出た嘘だったという事実を暴いた曽野綾子の仕事の価値を認めないわけではないが、しかし、僕は、大江健三郎曽野綾子を同列に並べて議論することに違和感を感じる。政治的な活動はともかくとして、文学的なレベルが違いすぎるからだ。いずれにしろ、今、大江健三郎という個人の古い著作を取り上げて告訴し、政治的な話題づくりを狙っているだろう「保守論壇」周辺のみなさんの知的レベルを、僕は軽蔑こそすれ、尊敬する気にはなれない。かつての左翼市民運動家が考え付きそうな、まことに低次元の争いである。申し訳ないが、僕は、曽野綾子より大江健三郎を何百倍も尊敬している。最近、別のところに(『月刊日本』)も書いたが、三島由紀夫小林秀雄も、実は、大江健三郎という作家を、政治思想や政治的立場の違いを超えて、高く評価し、一目置いていた。三島や小林は、大江健三郎を批判し、罵倒するだけの、最近の保守論壇を跋扈する文学音痴の人達とは違うのだ。大江を批判し、大江を乗り越えたいと思うなら、大江以上の高質の文学作品を創造することだ。むろん、当然のことだが、昨今の保守派にはそんなことは無理だろう。保守派には、三島由紀夫小林秀雄もいない。僕も、学生時代から一貫して「保守反動」を自任してきた人間だが、最近の軽佻浮薄な「保守反動派」の群れとは一線を画しておきたいと思う。

沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。
 訴えを起こすのは、沖縄戦座間味島を守備した陸軍海上挺進隊第一戦隊長を務めた梅沢裕・元少佐(88)と、渡嘉敷島を守備した同第三戦隊長だった故赤松嘉次・元大尉の弟、赤松秀一氏(72)。
 訴えられるのは、『沖縄ノート』(岩波新書)の著者の大江氏と、他にも故家永三郎氏の『太平洋戦争』(岩波現代文庫)、故中野好夫氏らの『沖縄問題20年』(岩波新書)などを出している岩波書店
 訴状などによると、米軍が沖縄の渡嘉敷島座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。
 沖縄戦の集団自決をめぐっては、昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。
 疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。
 その後も、昭和史研究所(代表・中村粲独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。
産経新聞) - 7月24日2時41分更新




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