文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■丸山眞男について…。

最近丸山眞男を集中的に読んでいる。と言うのは今、「丸山眞男論」なるものを書いているからだ。なぜ今頃、丸山眞男なのか。不思議に思う人もいるかもしれないが、僕としては単なる思いつきで書き始めたわけではない。実は小林秀雄について書いているころからの念願だった。「小林秀雄マルクス主義」という問題で一番本質的な議論をしているのが、小林秀雄フアンや小林秀雄エピゴーーネンではなく、「日本の思想」における丸山眞男だったからだ。戦前の思想を象徴する思想家としての小林秀雄を批判しつつも、丸山眞男には小林秀雄の思考の深さがよく分かっていた…、というのが僕の基本的な解釈だ。小林秀雄丸山眞男は、論壇的立場は対局にあったと思われるが、思想家としての資質は意外に共通性が少なくないのだ。たとえは音楽への傾倒。江戸思想や福沢諭吉ヒットラーのナチズム等への深い理解。特に戦後の論壇へのデビュー作と言っていい「超国家主義の心理と論理」などは小林秀雄のデビュー作「様々なる意匠」とその論理構造は瓜二つなのだ。僕の解釈ではこの二人は深いところで、っまり存在論的な位相で深くつなかっていたのだ。論壇的対立や差異は表面的なものにすぎない。「日本の思想」における小林秀雄批判を、文学音痴の社会科学者による見当違いのタワゴトと見做した文学者達の多くは、丸山真男より文学芸術の深層を理解していたわけではなかった。いずれにしろ、「日本政治思想史研究」「日本の思想」「『文明論之概略』を読む」などを読むとその粘り強い分析力と論理的な構築力には驚く。長い間戦後論壇のカリスマ(教祖)であり続けた理由がよく理解できる。単なる政治学者、あるいは単なる思想史家ではないのだ。新刊ではないが、「丸山眞男音楽と対話」(中野雄)を読んであらためてそう思った。明らかに丸山眞男はナチズムやファシズムを、その深層心理を深く理解した上で批判している。ワーグナーフルトベングラーへの傾倒がそれを証明している。それは小林秀雄に通じるものだ。保守革新、左翼右翼を問わず、最近の思想家に欠如している資質だ。