文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■小林秀雄もろくに理解できない丸谷才一や小谷野敦のような凡人ども


 文芸誌と言えば、「新潮」「文学界」「群像」「すばる」「文藝」などのことを言うが、最近、この種の雑誌が問題になることはほとんどなくなったようだ。何故か。先日、ある同人雑誌が、中堅クラスの作家たち数名によって創刊されるということで、その創刊を記念する座談会に出席した。座談会は、文芸評論家を中心とした座談会だったが、そこでの中心的な話題は、もっぱら「文芸誌の地盤沈下」ということだった。僕自身は、それほど文芸誌との付き合いはないが、文芸誌で新人賞を受賞し、文芸誌を舞台に活躍してきた中堅クラスの「文芸評論家たち」が、揃いも揃って、最近の「文芸誌の堕落」を指摘していたのが印象的だった。確かに最近の文芸誌の思想的エネルギーの衰弱は顕著である。それを象徴的に表しているのが「論争の不在」「論争の回避」という現実だろう。文芸誌は文学論争の舞台を提供するものである、と僕などは思っていたが、最近はまったく逆で、文学論争を回避し、もっぱら自社の出版物のプロモーションに精力を費やす雑誌に化している。言い換えれば、文芸誌は仲間褒めを中心とした一種の社交場と化している。それで文学や批評が活性化するはずはない。たとえば文芸誌に連載されている評論を見ればよい。昨日取り上げた小谷野敦は、今月からまた「文学界」に連載を開始しているが、彼は、小林秀雄の「花の赤さというものはない。赤い花があるだけだ。」(「当麻」)という言葉を「意味不明」「荒唐無稽」なダジャレだと断言する人である。そして、「小林秀雄がわからない」事を得意げに自慢し、小林秀雄の文章が受験問題から消えたことを喜んでいるような人である。この程度の凡庸な「常識人」が、文芸誌に堂々と連載が持てるのだから、昨今の文芸誌の「読解力」のレベルがどの程度のものかは明らかだろう。昨日の夕刊に経済協力開発機構oecd)による15歳男女の学習到達度調査の結果が発表されているが、それによると日本の子供の学力が、特に「読解力」が大幅に落ち込んでいるらしい。教科書や受験問題などから、「小林秀雄」だけではなく「夏目漱石」「森鴎外」などの古典が排除され、ウスッペラな雑文だけが掲載されるようになった結果であろう。「小林秀雄」もろくに理解できない丸谷才一小谷野敦のような凡人たちが、文壇や論壇を跋扈している限り日本人の「読解力」の回復は難しいだろう。