文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■小笠原さんが亡くなった。

■2004/10/05 (火) 小笠原さんが亡くなった。

 昨日は立川の朝日カルチャーだった。新しく始まる時期なので、テキストを作るために生徒たちの小説原稿を持って午前中にルミネの事務所へ出かけた。エスカレーターの階段を登っている途中、携帯がなった。11頃だった。こんな時間にだれだろうと思いながら携帯を手にとったが、よく聞こえない。立ち止まって耳をすますと、井口(時男)さんだった。僕が、今日、立川だと言うことをわかっていて、飲みにいこう、という誘いかなと思った。井口さんともしばらく会っていない。そう言えば、小笠原さんの見舞いに行って以来のような気がする。それももう夏休み前のことだ。久しぶりに飲みに行こうかなと思ったが、しかし要件はそういうことではなかった。「小笠原さんが今朝亡くなりました。明日、福島泰樹さんのお寺で葬式です。」と、井口さんの声がいつになくしんみりしている。
 小笠原さんは、井口さんたちと見舞いに行った時は、僕の印象では意外に元気そうだった。死期が近づいているようにはとても見えなかった。「これからカラオケ?」と僕たちの方を見まわしながら聞いてきたのが最期だった。その時は、若い医者やカウンセラーと、やがてやってくるだろう死について語ることの滑稽さを笑いながら話していたのが印象的だった。死については文学を生業としてきた俺の方が深く考えている、彼らの言葉は何の役にも立たない、と言いたかったのだろう。むろん、医者たちを批判していたわけではない。
 小笠原さんとは、「週刊読書人」の編集者時代に知り合った。しかしその後、付き合う機会はあまりなかった。むろん出版会やパーテイなどで会う機会はあった。が、親しく話すことはなかった。それが井口さんたちを中心にした日野・八王子近辺の飲み会グループに参加するようになって以来、急速に親密になった。新宿の駅ビルの中であった小笠原さんの出版会にも参加した。それも実は、井口さんや大日向さんたちが、つまりその飲み会グループが中心になって企画した出版会だった。
 その後、小笠原さんは法政大学教授が内定。身辺が急に忙しくなり、会う機会も少なくなっていた。ところがその直後、病気が見つかり入院したということを井口さんから聞いた。その話を聞いてからまだそんなに時間は経過していない。今年の四月は、体調も回復し、法政大学の講義を再開したということも聞いていた。
 合掌。今日、これから葬式に出かける。