文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ドストエフスキー的狂気からチェーホフ的狂気へ

 ドストエフスキー的狂気からチェーホフ的狂気へ    


 ドストエフスキーの名前を聞くたびに、私は、いつもほぼ同世代の清水正の名前を思い出す。清水正の名前は、ドストエフスキー研究家としてすでに学生時代から有名だった。いつごろのことか正確には記憶していないが(1970頃?)、東京の大きな書店の棚にはすでに、『ドストエフスキー体験』という清水正ドストエフスキー論が並んでいた。それは本というより雑誌のような粗末なもので、同人雑誌に毛の生えたようなものではあったが、私は書店に行くたびにいつも羨望と、なかば嫉妬と反感とともに仰ぎ見ていた。「現代日本文学」や「大学紛争」などには目もくれずに、文学と思想の巨人・ドストエフスキーだけを相手に孤独な思想闘争を演じているらしい若い無名の青年・・・「清水正」の存在は、その頃、いまだに文学か哲学か、あるいは何を勉強し、何処へ進むべきかに迷い、途方に暮れていた私には脅威であった。しかも本の後書きを見ると、それが日大芸術学部の学生だと書いてある。清水正とはいったい何者なのか。いったいこの清水正という青年はニセモノなのかホンモノなのか。正直に言うと、私は冷静ではいられなかった。実は私も高校時代、ドストエフスキーに遭遇し、激しく魂を揺さぶられ、深く感動した結果、将来、ドストエフスキーの研究家になりたいと本気で考えたことがあったからだ。しかし、私はドストエフスキーは好きだったが、ドストエフスキーを論じたり研究したりする人が好きではなかった。ドストエフスキーを論じる人は、多くの場合、自らがドストエフスキーであるかのように錯覚し、ドストエフスキーのように深刻・深遠な哲学について語ろうとする。私はその自意識の欠如と自己欺瞞が嫌いだった。それこそまさにドストエフスキーが、病的に厳密な思考力で冷静にえぐり出し、批判・罵倒した人間精神の「自己欺瞞の構造」そのものではないのか、と私は思った。ドストエフスキーを論じている人で、私が嫌いにならなかったのは、わずかにドストエフスキー論に本格的に取り組んだ最初の批評家・小林秀雄と、ドストエフスキーの翻訳だけに一生を捧げた米川正夫ぐらいであった。その他のドストエフスキー論やドストエフスキー研究を私の精神は生理的に拒絶した。外国のドストエフスキー論やドストエフスキー研究も例外ではなかった。読めば読むほど失望し嫌いになった。ドストエフスキーという名前に依存しつつ、ドストエフスキー気取りの講釈を延々と繰り返す・・・その鈍感なニセモノ根性が嫌いだった。私はひそかに、「君はドストエフスキーではないぞ・・・」、「ただドストエフスキーを論じているだけだぞ・・・」、「勘違いしてもらっては困るぞ・・・」とつぶやいていた。そういう時、江藤淳が、「本当はチエーホフが一番怖い・・・」と書いている文章を読んだ。私は思わず納得した。そして江藤淳のような人こそドストエフスキーをよく理解しているのではないかと想像した。巷では、当時、「朱子学的世界像」や「治者の文学」を主張していた若き文芸評論家・江藤淳は、ドストエフスキーのような「実存的」「病的」「哲学的」「反社会的」・・・な文学が理解できない「小市民的常識人」と思われていた。私は、それは逆だろうと思った。さて、長い間、ドストエフスキー研究の領域で重厚、かつ膨大な著述を積み上げ、、「もはやドストエフスキー研究に関してはこの人の右に出る者はいない・・
・」と思わせるほどの成果を上げつつある清水正が、とうとう「チェーホフ論」を書いたという。これは、私見によれば、清水正はがそこまでドストエフスキーをきわめたということであろう。あまり世間的には知られていないかもしれないが、今や清水正は、質においても量においても日本ではトップ・クラスのドストエフスキー研究者に成長した。清水正に太刀打ちできる本格的なドストエフスキー研究者はどこにもいない。たしかにドストエフスキー研究とは言ってもそれぞれ個別的なジャンルや領域、あるいはロシア語原文の読解能力等においては清水正をしのぐ研究者は無数に
いるだろう。しかしドストエフスキーのすべてを縦横無尽に語り尽くせる研究者は清水正以外ににいない。おそら清水正の「チェーホフ論」の真意も、チェーホフ的視点に立ってドストエフスキーを読み直す・・・というところにあるだろう。清水正は『六号室』論で、狂気を内側から語るドストエフスキーと、狂気の内側に決して立ち入ろうとせずに、あくまでも「向こう岸から」のみ狂気を語り続けるチェーホフを対比している。ドストエフスキー的狂気からチェーホフ的狂気へ。チェーホフ江藤淳のように、「小市民的な常識人」を貫くことこそ狂気である。つまりチェーホフのように、「私はドストエフスキーではない・・・」と自覚した時、人はもっともドストエフスキー的狂気の近くにいるのではないか。清水正チェーホフ論が、いわゆる「最も恐ろしいチェーホフ」について語ろうとしていることは間違いない。




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1947年生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒。慶應義塾大学大学院修了。東京工業大学講師を経て、現在、埼玉大学講師。朝日カルチャー・センター(小説教室)講師。民間シンクタンク『平河サロン』常任幹事。哲学者。作家。文藝評論家。

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