文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

日大芸術学部の特別講義で「小林秀雄を語る。」

 

先週の水曜日の午後、江古田の日大芸術学部に出掛けた。その日のことを書き忘れていたのでここに書いておこう。ちょうど1週間前のことである。実はその日、文藝学科の清水正(まさし)教授に特別講義を依頼されていた。清水教授の最終授業の時間を2コマ使って「小林秀雄を語る【1】【2】」という企画を組んでもらっていた。最初の時間は僕が「小林秀雄」について講義し、2時間目はそれを前提に清水教授と僕とそれに同じく日大文藝学科の此経啓助教授を加えた三人で鼎談形式のシンポジウムを行なうという計画であった。僕は小林秀雄について、何故小林秀雄が問題なのか、小林秀雄の何が問題なのか、というような基本的なことから話した。一般的に小林秀雄というと問題自体が理解されておらず、小林秀雄を論じることが何故大事なのかということがよく理解されていないからだ。僕はいつものように「文芸評論家は哲学者だ」「批評こそ哲学である」という柄谷行人の解釈を拝借して、小林秀雄は単なる文芸評論家ではなく日本における「哲学者」的存在であること、それ故に小林秀雄を論じることは文芸論の枠を超えて、ある意味では日本人の思想や精神の問題を論じることであることを強調した。つまり、小林秀雄とは日本的な思考の極限に位置する存在であり、小林秀雄が各時代に発表した文章や発言は日本人の貴重な思考の記録である、と。「小林秀雄ドストエフスキー」「小林秀雄と科学革命」「小林秀雄中原中也」「小林秀雄大東亜戦争」等を話題にしながら小林秀雄という批評家の思考のシステムを「理論から虚無へ」「意識から無意識へ」「イデオロギーから存在論へ」というような図式で説明した。特に清水正教授は日本有数のドストエフスキー研究家で膨大な著作を発表している人なので、小林秀雄ドストエフスキー体験をかなり詳細に説明しておいた。2時間目はドストエフスキー研究者の立場から清水教授が、小林秀雄ドストエフスキー論の限界を厳しく追及することから始まった。僕は小林秀雄を理論的に擁護する立場から、此経啓助教授はやや中立的な立場から、それぞれの持論を展開し、かなり激しい論戦をおこなった。久々に興奮する熱のこもった論戦だった。この鼎談の中身はさらに同じテーマの鼎談を数回行ない、いずれ本にする予定だということなので、くわしくはそちらを読んでもらうことにしたい。最後まで付き合ってくれた学生に感謝。




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1947年生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒。慶應義塾大学大学院修了。東京工業大学講師を経て、現在、埼玉大学講師。朝日カルチャー・センター(小説教室)講師。民間シンクタンク『平河サロン』常任幹事。哲学者。作家。文藝評論家。

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