文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

久しぶりに朝日カルチャーセンターの講義で立川へ。

 昨日、久しぶりに朝カルの小説教室の講義で立川へ。と言っても実は前日も1月から3月までに使う作品集を作るために立川まで来た。前日は、用事が済んだ後、人と会ってルミネの8階で少し飲む。昼間で、しかも日曜日。なかなかいい店が見つからず、仕方なくいつも行き付けのルミネ8階へ。本日は、新しい出来立てのテキストを読むために、少し早目に家を出た。事務のNさんからテキストを受け取り、近くの喫茶店でテキストを読む。みんなよく書けている。もうかなり高いレベルに達している。後は文章の質だろう、と思う。しかしそれを説明し、わかってもらうのはなかなか難しい仕事だ。やはり、習うより慣れろ。今回は、テキストの裏に、お手本にするために瀬戸内寂聴の「場所」から一節を引用した。瀬戸内寂聴が、作家修行のために上京し、そしてその直後、父親の死に遭遇する場面だ。夫と子供を捨てて若い男と駆け落ちした瀬戸内寂聴は、この頃、なかば勘当状態だったが、父親の死の知らせを聞き、すぐ駆け付ける。姉から「あなたが父親を殺したのだ……」と責められる場面である。ここで、瀬戸内寂聴は、なんの反論もせずに、ただただ自己を厳しく批判するだけだ。自責の念にかられながら、自分を問い詰めていくだけだ。自分は、「親不孝の馬鹿娘だった」、「自分が父親を殺したのだ」と。小説作品として見れば、この問い詰め方がいい。なかなかこういうことは書けないものだ。自責の念にかられながら書く文章には凄みが出てくる。人間の持つ虚栄心が完璧に消えている。小説の恐ろしさとは、こういう「低い視点から」の自己批評、自己批判にあるように思われる。これが行きすぎると自殺へ行きつくような心理分析である。僕は、高校生の時、生物の小野重朗先生に教えられて、たまたま大江健三郎の小説を読み、小説の恐ろしさを知ったが、今、振り返って考えて見ると、結局、それまで読書というものが大嫌いだった僕が衝撃を受けた大江文学の本質とは、この激しい自己批評、自己批判にあったように思われる。そして、おそらく、僕の小説教室に来ている生徒たちの作品に、最終的に欠けているものも、この問題であるように思われる。やはり、自己批評は難しい。しかしそれがなくなれば、文学や小説の魅力は半減する。普通の新聞や週刊誌の文章と同じになる。などと考えながら、教室へ。教室が終った後は、例のごとく。



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1947年生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科卒。慶應義塾大学大学院修了。東京工業大学講師を経て、現在、埼玉大学講師。朝日カルチャー・センター(小説教室)講師。民間シンクタンク『平河サロン』常任幹事。哲学者。作家。文藝評論家。

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