文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「右翼亡国論」メモと引用文。

安田浩一の『ネットと愛国』を読む。

桜井誠の名前を知ったのはかなり早い。しかし、ほとんど興味も関心ももたなかった。むしろ批判的に見ていた。

私が、桜井誠に強い関心と興味を持つようになったのは、二つの事件が関係している。一つは、安田浩一という人の書いた『ネットと愛国』を読んだことである。もう一つは、大阪市長橋下徹との「激突対談」をテレビ画面で見たことである。

二つの事件をとおして、私は、「桜井誠」を見直した。私は、健全な市民社会から批判、罵倒されている「桜井誠」に、様々な意味で、興味を持って持った。

たとえば、ヘーゲルは言っている。<< >>



安田浩一の『ネットと愛国』は、非常に評判のいい本で、何か「賞」ももらったらしい。しかし、私は、それも読まなかった。「ヘイトスピーチ」が話題になり、桜井誠が「要注意人物」として話題になるにつれて、私は、「桜井誠」に興味を持つようになり、その関連で『ネットと愛国』も、立ち寄った書店で、「立ち読み」してみたのである。
 私は、冒頭の文章を読んで、言いようのない「不快感」と「怒り」が沸いてくるのを押さえることができなくなった。「田舎育ちの貧しい少年」と「不幸な家庭環境」を、「上から目線」で愚弄、蔑視するかのような「文体」に、怒りを感じたのである。私は、この文章を書いている安田浩一なる文筆業者は、文筆業の名に値しない「俗物だな」と思った。それから、逆に「桜井誠」に興味を持ち、「桜井誠」関係の本や資料を読みはじめた。
 安田浩一は、「桜井誠」の出身地、北九州まで足を運び、現地取材している。現地取材が悪いわけではない。むしろ褒めるべきところだろう。安田浩一は書いている。

《2両編成の筑豊電鉄は起点の黒崎駅前(北九州市)を出ると、しきに洞海湾に面した工業地帯と平行するように走り、途中で南に大きくそれて筑豊方面へ向かう。車窓越しに見えるのは、低い山並みと住宅地からなる退屈な風景だけだ。停車するたびに「チン、チン」と小さく響く鐘の音が眠気を誘う。
無人駅をいくつかやり過ごし、中間市に入ったあたりで下車すると、駅前から伸びる緩くて長い坂道の両脇に、戸建ての住宅街が広がっていた。かつては炭坑町としては栄えたというが、往事の面影はすでにない。
近くに住む古老によれば、この一帯は旧大辻炭鉱の跡地だったという。大辻炭坑は、麻生家、安川家と並んで筑豊御三家
の一つに数えられる貝島家が経営していた大規模炭鉱だった。創業者の貝島太助は貧農の出身で、家計を助けるために幼い頃から鉱夫
として働き、苦労して財閥を成すにいたった立志伝中の人物であり、「筑豊の炭鉱王」なる異名を持つ。その貝島の飛躍を支えるきっかけとなったのが、明治29(1896)年から経営に携わるようになったこの大辻炭鉱なのである。》

これが、桜井誠の故郷、北九州の「中間市」周辺の風景である。そして、文章は、桜井誠の人間像へと続いていく。

《そのボタ山と向き合うように、県立高校の校舎が建っていた。この高校も、地域の衰退を防ぐために、付近の住民が懸命に陳情と誘致運動を重ねて、83年に開校したものである。
その男ーー高田誠は、この学校に通っていた。
1972年生まれの彼が卒業してからすでに20年が経過している。放課後、自転車に乗って校門から勢いよく飛び出してくる生徒たちに高田の名を告げても、誰ひとりとして知る者がいなかったのは当然だろう。
そもそも高田は在学中から影の薄い男だった。》
そして、同級生の話。
《私が話を聞いた元同級生たちは、誰もが同じような印象を口にした。
「無口で目立たない」
「物静か」
「高田?」
「そんな名

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桜井誠にとって「家出」とは何だったか?

 安田浩一の『ネットと愛国』によれば、桜井誠の母親は、スナックの経営をやりながら、桜井誠と弟を育てた、ということになっている。父親とは、桜井誠が何歳ぐらいで離婚したのかどうかわからないが、早くから別居していたようだ。
 母親が、「水商売」をしながら、母子家庭で、二人の男の子を育てたという話について、安田浩一は、それ以上、深く踏み込んだ分析をしていない。
 たとえば、高校生時代の桜井誠が、何回も家出をしたというエピソードを記している。安田浩一は、この「家出」という話を、どう受け止めているのだろうか。
 安田浩一は、よくある「不良少年の家出」ぐらいにしか見ていないように、私には読める。あるいは、桜井少年のダメさ加減を強調するために記しているようにしかみえない。つまり、安田浩一は、桜井誠を批判、否定したいという願望が強すぎるために、桜井誠の「内的論理」、「内的体験」を読もうとしていない。
 私は、桜井誠の家出の話を読んで、桜井誠の家出には、現在の「嫌韓論」や「ヘイトスピーチ」にもつながるような「内的体験の物語」があるはずだと思った。
 おそらく、私の予想では、桜井誠少年は、心優しい、母親思いの少年だったはずである。毎晩、夕方になると仕事に出かけていく母親、そしてその母親の帰りを、弟と二人で留守番しながら待つ桜井少年。
 それ故に、母親に対する思いは、複雑になり、愛憎半ばするものとなっていたと思われる。その結果が、高校時代の家出である。
 ここから、この現実から逃げ出したかった。しかし徹底的に逃げて、母親や弟を置き去