イデオロギーから存在論へ、存在論からイデオロギーへー佐藤優との対話(4)。
私の思想的立脚点は、「イデオロギーから存在論へ」というものだ。私が、興味を持たないものは、イデオロギー、あるいはイデオロギー的なものである。では、イデオロギーとは何か?イデオロギーとはマルクス主義とか実存主義とか、あるいは構造主義とかポスト構造主義とかいうような類の思想のことである。
私は、人間が生きていく上で、イデオロギーは不可欠だと思っている。しかし、それでも、私は、イデオロギーが嫌いである。あらゆるイデオロギーの根底には「虚無の深淵」が大きな口を開けている。私は、その「虚無の深淵」を覗き込むことが好きだ。つまりそれが存在論の世界なのだが、私は存在論の世界が好きだ。
たとえば、マルクス的思考とマルクス主義的思考とは違う。マルクスは「虚無の深淵」「存在の深淵」「絶望のどん底」・・・を覗いただろうが、マルクス主義者たちの思考は、マルクス主義というイデオロギーの周りをグルグル回っているだけで、「虚無の深淵」・・・を覗いていない。私が「つまらない」というのは、マルクス主義的思考である。
私が、佐藤優の著作を夢中になって読むのは、そこに「虚無の深淵」があり、つまり存在論の世界がひろがっているからだ。しかし、さの言論活動のほとんどは、キリスト教やマルクス主義・・・というようなイデオロギーであるように見える。つまり、マルクス的思考ではなく、マルクス主義的思考のように見える。
佐藤優の思考がイデオロギー的思考のように見えるのには、裏がある。佐藤優には、『国家の罠』や『獄中記』、あるいは
『私のマルクス』や『先生と私』のような自伝的体験小説のようなものがある。これらの自伝的体験小説のようなものが意味するものは何だろうか。私は、そこに、佐藤優という思想家が、「イデオロギーの人」ではなく、「存在論の人」だという秘密が隠されているように見える。
私は「イデオロギーの人」が嫌いなのではない。私が嫌いなのは、「イデオロギーだけの人」である。私が、昔から「左翼青年」や「左翼思想家」が嫌いだったのは、「イデオロギーだけの人」だったからだ。だから私は、廣松渉や柄谷行人を読むのである。
たとえば、私の先生であった文藝評論家の江藤淳は、『閉ざされた言語空間』や『一九四六年憲法ーその拘束』などを読むと、「イデオロギーだけの人」のように見える。つまり頑なな「保守思想家」、「右翼思想家」のように見える。しかし、江藤淳には、二十歳そこそこで書いた「夏目漱石論」や「小林秀雄論」「一族再会」などの存在論的作品がある。それらは、左翼とか右翼というイデオロギー的次元を超えている。最近の「似非保守思想家たち」には書けないし、真似さえ出来ない作品群である。
私は、佐藤優の『私のマルクス』や『先生と私』などを読みながら、江藤淳と似た匂いを感じた。要するに、存在論的思考を有する人間は、イデオロギーのレベルでも、本質的な仕事をすることが出来るからだ。佐藤優と江藤淳に共通するのは、「イデオロギーだけの人」ではなく、「存在論的思考」から始まった「イデオロギーの人」だということだ。