佐藤優論(5)。昨日、「月刊日本」の企画で、赤坂の某所で、佐藤優さんと、「佐藤優とは何か」という4回目の対談を行った。「月刊日本」5月号に掲載予定だ。佐藤優さんの近著に『神学の思考』があるが、そこで、佐藤優さんは、自分の体験としての「救済宗教としてのキリスト教」について書いている。佐藤優さんは、キリスト教だけではなく、マルクス主義も 「実存的救済」の問題として受け止めている。思想や信仰や学問を、「救済」の問題として捉える。それは、最近では珍しい。それが佐藤優の思考の原点であり、思想家=佐藤優の魅力の原点で
佐藤優の語るキリスト教神学についてもマルクス主義についても、私は、理解できる。私は、キリスト教徒でもマルクス主義者でもないが、理解できる。それは、佐藤優が、実存的決断として語っているからだ。私は、「救済」や「啓示」「恩寵」・・・などにつては、ほとんど無知であるが、それらについて知識や情報としてではなく、主体的、倫理的、自己体験的に語る佐藤優という存在は理解できる。
私は、「小保方晴子問題」や「民進党問題」については、佐藤優とは、分析や意見、解釈を異にする。しかし、そのレベルの差異や対立は、イデオロギー次元の話である。たとえば、「民進党問題」や「鈴木たかこ民主党離党問題」などは、佐藤優にとって「実存的問題」であろう。佐藤優は、鈴木宗男という政治家とは、一種の「運命共同体」にあると思う。生死を共にした「戦友」のようなものだろう。私は、そういう関係を重視する。
私は、「イデオロギーから存在論へ」という思考過程の流れを重視し、それを自分の「持論(哲学)」としている。つまり、イデオロギーや科学、学問の次元の「理性的判断」より、主体的、倫理的な「存在論的判断」を重視している。
佐藤優にとってキリスト教もマルクス主義も、そういう実存的決断の結果として選ばれている。キリスト教もマルクス主義も、知識や情報、学問としてあったわけではない。繰り返していうが、私は、キリスト教にもマルクス主義にも、これまで、佐藤優ほど興味も関心もなかった。はっきり言うならば、私の関心外にある。しかし、私は、佐藤優には関心がある。
キリスト教について、特にプロテスタンテイズムについて、あるいは、イエス・キリストについて語る佐藤優という存在は面白い。私は、キリスト教やイエス・キリストについて語るクリスチャン(キリスト教徒)の話が嫌いである。生理的に受け付けない。佐藤優と凡庸なクリスチャンとの差異は、どこにあるのだろう。
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