文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

国家と神とマルクスー佐藤優論(1)あるいは佐藤優氏との対話。


👈応援クリックよろしくお願いします!


近日中に、また、「月刊日本」の企画で、第4弾として、「佐藤優氏との対話」を行う予定である。今回は、「佐藤優的世界」、言い換えれば「佐藤優思想」の哲学的原点とでも呼ぶべき「キリスト教神学」と「マルクス主義」について伺う予定だが、どのような内容の話になるか分からない。


そこで、此処で、「佐藤優氏との対話」に向かう前の予備作業として、私なりの立ち場と感想を覚え書き的に書き留めておこう。現存する思想家や文学者で、私が、共感しつつ読めるのは、柄谷行人佐藤優だけである。


何故、柄谷行人佐藤優のテキストだけが、すなおに読めるのか、私にもわからない。何故なのか?それは、「原理的思考」があるか、ないかの違いであるように見える。むろん、柄谷行人にも佐藤優にも、「原理的思考」とでも言うべき過激な思考がある。



佐藤優の著作の多くは、国際情勢や社会情勢、政治情勢を分析、解明した情勢論である。しかし、単なる表層的な情勢論ではない。新聞記者やジャーナリストたちの国際情勢論とは違う。佐藤優の情勢論は原理論や原理論的思考に裏打ちされている。佐藤優の著作や言説には、「分かるもの」と「分からないもの」がある。「分かるもの」は情勢論の部分であり。「分からないもの」、あるいは「分かりにくいもの」は原理論の部分だろう。



すでに佐藤優の愛読者なら、よく分かっていることだが、佐藤優を平凡な思想家、凡庸な作家、紋切り型のジャーナリストではなく、いわゆる「佐藤優佐藤優たらしめているもの」は、「キリスト教」と「マルクス主義」である。



つまり佐藤優を、売れっ子のベストセラー作家でありながら、最近では珍しい話だが、なかなか枯渇、消耗、消費させないのは、佐藤優的思考が、キリスト教神学とマルクス主義に裏打ちされているからだろう。佐藤優を理解するためにはキリスト教マルクス主義がわかっていなければならない。


まず「佐藤優キリスト教」について見てみよう。佐藤優同志社大学神学部と同大学院で、本格的にキリスト教神学を学び、その後洗礼を受けて、クリスチャンになっている。これだけで、キリスト教というものが、佐藤優のなかで占める位置の重大さは察しが付く。キリスト教を語る人は多いが、佐藤優以外に「キリスト教神学」を極めた表現者を、私は知らない。


曽野綾子遠藤周作などもキリスト教をテーマに、小説を書いているが、彼等の「キリスト教」(カトリック)もキリスト教に違いないが、極めて恣意的なもののように、見える。佐藤優の「キリスト教」は違う。佐藤優ほど、「本格的に」に「キリスト教」を、思考の原点においている人はいない。佐藤優は、橋爪大三郎との対談本『あぶない一神教』(小学館新書)で、こう書いている。

しかし、論壇や文壇で活躍している人で神学的基礎訓練を受けている人は少ないので、神学的思考を読書界に伝える仕事に精力的に取り組んでいる。『宗教改革の物語』(角川書店)『神学の思考』(平凡社)『神学部とは何か』(新教出版社)、『同志社大学神学部』(光文社)がこの分野での私の主要な仕事だ。
(『あぶない一神教』5ページ)


また、『神学の思考』には、こういう文章がある。

近代の世界は、キリスト教的な価値観を基礎に構築されている。それを肯定的に評価するか、否定的に評価するかは脇に置いておくとにして、確かにキリスト教について知っていると世界を知るのに役立つ。その意味で本書は実用書である。
(『神学の思考』2ページ)


佐藤優の思考の原点に「キリスト教」という神学的思考がある。それが、佐藤優の国際政治分析や情勢論を、新聞記者やジャーナリストのそれと異なるものにしている。新聞記者やジャーナリストには「情報量」はあるかもしれないが、「キリスト教」という神学的思考がない。つまり「原理的思考」がない。それは間違いない。そこで佐藤優は、断言する。

宗教ーー特にユダヤ教キリスト教イスラム教の世界三大一神教がわからなければ、国際社会の情きが理解できるはずがありません。
(『あぶない一神教』16ページ)


しかし 、佐藤優が恐ろしいのは、その先にある。佐藤優は、キリスト教から学んだ神学的思考を、目前の具体的な問題でも徹底的にじ実践する。キリスト教には、「超越」という言葉がある。「神の声をきく」と言い換えてもいい。佐藤優は、「日本人には一神教的な超越という感覚はありませんね」と言って、さらにこう続いている。

神は超越的な「見えない世界」と一神教徒は考えます。宗教の役割は、我々が暮らす世俗の「見える世界」と「見えない世界」を結びつけること。(中略)しかし時代とともに日本人は「見える世界」だけを中心的に扱うようになりました。超越的な「見えない世界」について論理的に考えることが苦手になってしまったわけです。
(24ページ)


「超越的なもの」「見えない世界」・・・について論理的に考えることが出来る人間は、私見によれば、死ぬことも殺すことも出来る。佐藤優は、「イスラム国」の問題も、そういう観点から分析する。たとえば、「イスラム国」に殺された「後藤健二事件」を、一神教の観点から分析している。


後藤健二佐藤優と同じくクリスチャンであった。そして後藤健二は、「神の声を聞いたのではないか」と言う。「神の声を聞いた人間」は、一見、狂気じみた行動を起こす。後藤健二の行動も、日本人には馬鹿げたようにしか見えなかったとしても、キリスト教徒やイスラム教徒のような一神教徒には理解でき、共感できたはずだ、と。


さて、私は 、日本で、「超越」という問題を真剣に考えている人は、「作家たち」ではないか、と思っている。「文学者は自殺するが、学者は自殺しない」と柳田國男は言っている。これは、文学者たちが、「死ぬことも殺すことも出来る」人種なのではないか?と言っているに他ならない。


北村透谷、太宰治芥川龍之介三島由紀夫江藤淳・・・。自殺した文学者たちである。自殺していなくても、小林秀雄吉本隆明ドストエフスキー・・・、あるいは国家やそれに類するものに殺された幸徳秋水大杉栄・・・のように、私が尊敬・畏怖する文学者、思想家たちは、「超越の感覚」を共有しているように見える。


文学者たちは「超越」について語らない。「超越」の一歩手前で立ち止まっている。逆に、その「超越」については口を閉ざすところに、「超越」を感じさせる。「超越的なもの」は、「文体」や「比喩」を通してしか語れない。私は、キリスト教関係の作家に、「超越的なもの」の存在をほとんど感じない。彼等の語る「超越」は、実体的、合理的な超越である。私が、いわゆるキリスト教カトリックに興味がないのは、そこに「超越的なもの」を感じないからだ。



もし、佐藤優と私の間に、何か共有できるものがあるとすれば、僭越を承知で言わせてもらうならば、この「 超越の感覚」ではないか、と思う。私はキリスト教にそれほど関心がない。しかし、「超越の感覚」は理解できるような気がする。私は、「佐藤優」を読み、対話するようにな