文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「思い出のグリーングラス」の思い出。「思い出のグリーングラス」という歌があることは、漠然と知っていたが、その詳細は知らなかった。元歌は、死刑囚の心情を歌った歌だった。しかし、日本語に翻訳された「思い出のグリーングラス」、つまり森山良子等が歌った「思い出のグリーングラス」は、そこを排除=隠蔽して成り立った歌だった。いわば、日本製の「思い出のグリーングラス」は、故郷喪失、存在喪失の「思い出のグリーングラス」である。これは、最近の日本の政治家や思想家にも言える。薄っぺらな政治家と思想家。存在喪失の政治家と思想家

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断片的な記憶としては頭の隅に強烈に残っていたが、歌詞もメロディも、忘れていた。ふと、思い出して、調べてみた。反戦フォーク歌手として有名だったジョーン・バエズや、森山良子等が、ある時代に、「フォークソング」ブームのなかで歌っていた歌だった。急に思い出した。


「汽車から降りると、小さな駅で、迎えてくれるママとパパ---」「思い出のグリーン・グラス・オブ・ホーム---」。しかも、新しく知ったことだが、これは、死刑囚が、処刑前夜、夢の中で、懐かしい故郷の風景を思い出すという「死刑囚の歌」だった。


森山良子の歌った「思い出のグリーングラス」は、そこのところを抜き取って、単なる抒情歌的な綺麗事にした歌だった。しかし、原曲に籠る哀しい響きは、消そうとしても消えるものではない。歌詞もメロディも忘れたのに、私の頭の隅に残っていたのは、たぶん、その「哀しみ」だった。


私は、政治家に思想家にも、この「哀しみ」は必要だと思う。最近の政治家や思想家からは、この「哀しみ」が感じ取れない。吉田茂田中角栄から小沢一郎までは、この「哀しみ」を共有していた。しかし、今、日本の政治家や思想家からは、この「哀しみ」が消えた。


The old hometown looks the same as I step down from the train
And there to meet me is my mama and papa
And down the road I look and there runs Mary hair of gold and lips like cherries
It’s good to touch the green green grass of home



(英語原曲からの忠実な翻訳歌詞)
汽車を降りて見る故郷は昔そのまま、待っていてくれたのは父と母。
道の先をみると、メアリーが走ってくる、
あの金髪の、あのチェリーのような唇の。
故郷の青い、青い芝生にふれるのは、なのと素敵なのだろう。
そう、皆が出迎えに来てくれた。両手を差しのべ、優しく微笑みながら。
故郷の青い、青い芝生にふれるのは、なんと素敵なのだろう。
古い家はまだ残っていた。ペンキはひび割れ、かさかさだけど。
あの大きな樫もある。よく登って遊んだ木だ。
あの金髪の、あの赤いチェリーの唇の
優しいマリーと私は歩いた。
故郷の青い、青い芝生にふれるのは、なんと素敵なのだろう。
そう、皆出迎えに来てくれた。両手を差しのべ、優しく微笑みながら。
故郷の青い、青い芝生にふれるのは、なんと素敵なのだろう。

「語り」
そこで目が醒め見回すと、灰色の壁で囲まれていた。
ただはかない夢を見ていたのであった。
刑務員と悲しみの年老いた牧師が迎えに来たのだ。夜明けとともに腕を組みあい歩くことになる。

そうだ、再び故郷の青い、青い芝生にふれるのだ。
そう、あの大きな樫の木の下へ皆が迎えに来てくれるだろう。
あの青い、青い芝生の下に私を寝かせに


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歌手:森山良子
作詞:J.Hall・訳詞:山上路夫
作曲:C.Putman


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