文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

知性と知性主義と反知性主義。あるいは、『ネット右翼亡国論序説』について。

dokuhebiniki2015-06-18


人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ


反知性主義」が一種の流行語となっているらしい。「文学界」のような文藝雑誌までが特集するかと思えば、佐藤優の『知性とは何か』(祥伝社)という新書の新刊が、書店に並んでいる。私は、反知性主義も嫌いだが、知性主義も嫌いである。佐藤優は、安倍晋三麻生太郎を、「反知性主義」の典型的な例として論じている。たしかに「ポツダム宣言を読んだことがない」とか、「憲法改正ナチスに学べ」というのは、どう見ても、「知性」的ではない。まさしく「反知性主義」である。


しかし、私の考えは少し、違う。むしろ、現代日本の病根は、「反知性主義」にあるのではなく、「知性主義」の方にあると思ってている。これを、厳密に言うと、「知性主義という名の反知性主義」が、現代日本の言論空間に蔓延していることこそが、最大の問題だと言っていい。私が、『ネット右翼亡国論序説』で、問題にしようとしているのは、「反知性主義」だけではなく、「知性主義という名の反知性主義」だ。


最近の文壇や論壇、そしてテレビ・ジャーナリズムも、高学歴の知性主義が氾濫している。皮肉なことに、たとえば「東大大学院博士」とかいうような肩書の言論人や思想家が氾濫するようになって、日本の論壇やジャーナリズムの地盤沈下は始まっている。


「東大大学院博士」が象徴するのは「知性主義」である。それは、「ネット右翼」と軽蔑的に呼ばれる階層の対極にあるように見える。しかし、そんなに違っているだろうか。私には、瓜二つにしか見えない。かつて、山本義隆という「東大全共闘議長」なる伝説的な人物が、『知性の氾濫』という本を出版した時、文藝評論家の柄谷行人が、激しく批判したことがある。柄谷行人は、皮肉を込めて、「知性の氾濫だって、それなら徹底的にやってみろよ」というようなことを書いていた。


柄谷行人も東大卒だが、柄谷行人は、「山本義隆」が象徴するような「東大大学院博士」的な、つまりがり勉秀才的な「知性主義」を批判したのであった。私は、その時、柄谷行人の「知性」と山本義隆の「知性」との「差異」は何処にあるのだろうか、と考えたことを思い出す。私の考えでは、それは、「知性」と「知性主義」の差異であった。


柄谷行人は「知性」を擁護し、「知性主義」を批判したのであった。柄谷行人が高く評価するのは、夏目漱石小林秀雄江藤淳中上健次マルクス・・・というような「知性」である。そして、彼らは、「東大大学院博士」的な「知性主義」とは無縁である。


たとえば、柄谷行人は、芥川龍之介について、芥川龍之介には「知性」、あるいは「知性の格闘」が欠如していた、とこう言っている。

芥川がどうして「主知主義者」などであったろう。彼は知性の「限界」につきあたってもいないし、懐疑もしていない。他人に対する過敏な自意識は、真の内省とは異質である。衰弱した≪神経≫のもたらす迷いや判断喪失とはまつたく別である。芥川には、「知性の限界」どころか、およそ知性上の問題は完全に欠落しているというべきである。
(柄谷行人『畏怖する人間』)

ここに、「知性」と「知性主義」の差異がある。我々が、今、目前にしているのは、「ネット右翼現象」という「反知性主義」と、その背後に広がる「知性主義という反知性主義」である。そこには「知性」そのものが欠如している。具体的に言えば、芥川龍之介的な「知性」ではなく、夏目漱石的な「知性」が欠如している。


(続く)

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ (文学や哲学を知らずして政治や経済を語るなかれ。・・・我国の論壇やジャーナリズムには、読み捨てにされるような「薄っぺらで、底の浅い評論や評論家」が多すぎる。文壇や論壇に蔓延するのは・何処を向いても受け売りとパクリ的言論ばかりです。自分の頭で内在的に、つまり存在論的に考えようとしないからだ。文壇や論壇の思想的劣化と退廃を、妨害や弾圧に屈することなく、厳しく批判・探求していきます。続きは、「文学や哲学を知らずして政治や経済、軍事をかたるなかれ」がモットーの『思想家・山崎行太郎』、思想家・山崎行太郎すべてが分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから→http://www.mag2.com/m/0001151310.html


メールマガジン「週刊・山崎行太郎」の登録はコチラ
↓↓↓
http://www.mag2.com/m/0001151310.html