文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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江藤淳と『ネット右翼亡国論』。

dokuhebiniki2015-06-17


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昨夜、久しぶりに都内某所の文壇バーで、 酔っ払って記憶を失ってしまった。しかし、酔っ払いながら、文藝出版社の若い編集者と雑談していて、重大な事実に気付いたことは憶えている。私は、今は、もう文藝関係の編集者と接する機会はほとんどない。昔もなかったが、それでも、少しはあった。彼等が何を考えているか、少しは分かっているつもりだった。


やはり、時代は変わったのだ。たとえば、若い編集者の話によると、江藤淳より福田恆存を高く評価する現象が、広くひろがっているようだ。何故、福田恆存なのか。私の想像を絶する話だった。福田恆存に根強いファンがいる事は知っている。



ネット右翼現象」とでも言うべき社会現象が、政治の世界だけでなく、文芸の世界にも及んでいるののだ、と私は感じた。斎藤禎さんの『江藤淳の言い分』を、もう一度、読み直したいと思った。そして、江藤淳について、真剣に考えてみなければならないと思った。


斉藤さんは、「江藤淳が無視・黙殺されている風潮」を怒っていたが、私には、あまり、その実感はなかった。しかし、昨夜、若い編集者と雑談していて、それを実感した。やはり、「江藤淳を不当に軽視する風潮」が、出版ジャーナリズムを中心に出来上がっているのだ。斉藤さんの認識と怒りは正しい、と思った。


江藤淳が不当に黙殺されている風潮」と「ネット右翼現象」は、無縁ではない。私見では、「ネット右翼現象」とは、イデオロギー中心に物を見る現象である。つまり「存在論的思考」がない現象である。


「右翼か、左翼か」というような二元論思考は終わったと言われ始めた時代があったが、そう言われ始めた頃から、実は「右翼か左翼か」というようなイデオロギー的思考や二元論思考の時代が始まっていたのだ。「存在論喪失」の時代の始まりである。


三島由紀夫にしろ大江健三郎にしろ、それまでの読者は、「左/右」を超えていた。しかし「ネット右翼現象」が始まったころから、三島由紀夫の読者と大江健三郎の読者は、それぞれ右翼や左翼に限られる傾向が顕著になる。「政治的イデオロギー」優先の読み方が主流になっていくということだ。



私は、もう何回も書いたが、大江健三郎という作家の小説作品との出会いによって文学や思想、哲学なるものに目覚めた。その後、「大江健三郎体験」の延長で、小林秀雄江藤淳三島由紀夫吉本隆明丸山眞男・・・等を読むようになったが、私は、一貫して「イデオロギー的読み方」をしていない。


私は大江健三郎の小説を読むことで「存在論的読み方」を知ったからである。だから私は、大江健三郎三島由紀夫を同時に読むことが出来る。江藤淳吉本隆明小林秀雄丸山眞男も同じだ。政治思想レベルやイデオロギーレベルで読んでいないからである。


言い換えれば、「存在論的読み方」を喚起しない作家や批評家、思想家を、私は読むことが出来ない。例えば、ドストエフスキーは読めるが、トルストイは読めない。同じように、丸山眞男は読めるが、福田恆存は読めない。福田恆存のテクストは、「存在論的読み方」を換気しない。つまり福田恆存には存在論がない。





(続く)


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