文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

久米秋三郎氏の「山崎行太郎論」(?)を読む。


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山崎先生、先生の肩書きの変更について思うところがあったので、次のような小文を書きました。


「哲学者=山崎行太郎の誕生」(久米秋三郎)


山崎行太郎氏のブログ「毒蛇山荘日記」をよく読んでいる人は、もう気づいているかもしれない。山崎氏は、自らの肩書きを「文芸評論家」から「哲学者」に変更した。これまでは、「文芸評論家=山崎行太郎の政治ブログ」となっていたのが、「哲学者=山崎行太郎の政治ブログ」と変更されているのだ。

この変更は、ごく最近のことで恐らく五月下旬のことだと思う。私も数日前には、確実にこの変更に気づいていたが、今、この変更が意味するものを、重大なものとして考え始めている。何度も引用している一節だが、これは山崎氏だけにとって重要な問題なのではない。

《(前略)僕は、中原中也にはなりたくなかった。小林秀雄になりたかった。・・・。しかし、僕は、当然だが、中原中也にも、小林秀雄にもなれなかった、僕は僕自身しかなれなかった。》(「毒蛇山荘日記」5月4日付、「伊豆大島放浪記」)の一節)

ここで、中原中也=散文=小説、小林秀雄=文芸批評=文芸評論、と仮定してみよう。

山崎氏は、中原中也にも小林秀雄にも、望むと望まないとに関わらず、なれなかった。つまり必然的になれなかった。太陽が東から昇り西に沈むのと同じほどに必然的に。

なぜか。

山崎氏の著書『小林秀雄ベルクソン』の第五章は、「三島由紀夫論」なのだが、その副題は「小林秀雄以後において「文学」は可能か」である。いまや、この副題の問いかけに対する解答は明白であるように思われる。山崎氏の解答は、(少なくとも山崎氏にとっては)「不可能である」ということになるはずだ。

小林秀雄ベルクソン』の第一章「小林秀雄理論物理学」の結び近くで、山崎氏は、批評家=小林秀雄の誕生に関して次のように書いている。

《(前略)つまり、作家は「人間」という対象を観測する古典物理学的な観測者である。これに対して、「観測者」としての「作家」を観測する批評家の誕生は、世界観、ないしは存在観の変換を背景にしている。(P62)》

私は上で引用したあたり(第一章「小林秀雄理論物理学」の結び近く)を読んで、「観測者」としての「作家」を観測するのが批評家ならば、その観測者を観測する「批評家」を観測するのは、誰なのか?と思ったのだが、山崎氏がその解答を見出したのは、今年5月の「伊豆大島放浪」においてかもしれない。むろんその解答とは、哲学者、である。「僕自身」とは哲学者のことなのだ。

しかし、この哲学者とは、単に「哲学」を学んだ者のことではない。人間を「観測する」者としての「作家」を観測する者としての「批評家」を、観測する者である…。

それは、根源的に思考・思索する者のことである。あるいは、山崎氏の言葉を借りれば、「常に正しい答えのある問題しか取り扱わない」者ではなく、「間違うかもしれないような問題、つまり答えの出ていない問題を扱う」者のことだ。(「毒蛇山荘日記」6月5日記事参照)

山崎氏は、文芸批評・文芸評論がすでに形骸化しているとみたのではないか。「科学論壇」がエセ科学者たちによって形骸化させられているように。月並みの「哲学」がすでに「常に正しい答えのある問題しか取り扱わない」のを見て取り、「お前たちは哲学者ではない」と断罪し、「俺が本当の哲学者だ」「哲学者とは誰か、この俺のことだ!」と宣言、宣戦布告しているのではないか?

宣戦布告の引き金を引いたのが誰なのか、それはあまりにも明白だ。「小保方博士バッシング」を先導・煽動したエセ科学者・エセジャーナリストであり、また「曽野綾子」であり、「保守論壇」である、そして伊豆大島


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大江健三郎の「沖縄ノート」を誤読しておきながら、言論で勝てないものだから裁判に訴えるという誠に卑劣な「お嬢さんババア」を完膚なきまでに打ちのめしたすばらしい作品である。》

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(山崎行太郎)

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曽野綾子が、沖縄集団自決問題を論じた『ある神話の背景』は、全面的に、赤松部隊の制作した「陣中日誌」に依存している。だが、この「陣中日誌」は、1970年に、赤松部隊隊員=谷本小次郎によって、全面的に書き換えられた、歴史的資料価値ゼロの「改竄=捏造文書」であった。とすれば、大江健三郎を訴えた「大江・岩波裁判」の根拠となった曽野の『ある神話の背景』も、「改竄=捏造文書」だということになる。しかも、曽野が、赤松部隊の共同謀議の場所に参加している「証拠写真(下)」まで残されている。曽野綾子は、曽野の改竄=捏造、共同謀議参加・・・を告発した『曽野綾子大批判』に答えるべきだろう。それとも、無視し、この問題から逃げるのか? 逃げるとすれば、曽野綾子は、「文学者失格」ではないのか?
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曽野綾子が赤松嘉次や赤松部隊のメンバーと謀議を凝らしている写真は、これ。




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参考までに、「久米秋三郎」氏の、『保守論壇亡国論』書評(Amazon)を転載します。

5つ星のうち 5.0 江藤淳亡き後の廃墟、あるいは「愚者の楽園」, 2014/5/21
By 久米秋三郎Amazon.co.jpで購入。



レビュー対象商品: 保守論壇亡国論 (単行本(ソフトカバー))
私はここで批判・検討されている「保守論客」たち(渡部昇一西部邁櫻井よしこ中西輝政小林よしのり、など)に、以前からあまり興味がなかった。その発言にしろ、「姿」、立ち振る舞いにしろ何ら人をひきつけるものがないからだ。だから彼らが「保守論壇の重鎮」と目されていることが俄かには信じられないほどだ。

本書の著者・山崎行太郎の批判は厳密である。論拠がはっきりしている。かつ言葉に魂がある。それにひきかえ「保守論客」らの言葉には魂がない。なぜか。それは彼らの雑文や発言がその場限りのもので、その場をダマしおおせればそれでよしとする「大衆動員言語」、つまり「アジテーション」だからだ。山崎は、そのことをここで厳密に論証している。

例えば、櫻井よしこの悪意に満ちた「エイズ事件」の本、これは認識不足の域を超えて、明らかに故意に、わざと曲解して作られた偽書だ。本書を読めばその経緯がはっきり分かるが、もし合点がいかぬという櫻井ファンがいたなら、本書で参照されている本や裁判記録などを確認したらいい。(とはいえ、櫻井ファンが確認しないことは初めからわかっている。もしそのような作業を厭わない人であれば、櫻井のデタラメさに気づかぬわけがない。)

 これはほんの一例である。櫻井は他にも歴史認識に関する講演会で、福島瑞穂との「架空対談」をでっち上げたりもしている。「福島さんとこんな話をしましたよ」、という嘘八百をその場で、おそらく即興で作ったのだ、ご丁寧に、福島の口調までマネてだ。この件について福島は月刊誌『創』で次のように書いている。(P42)

≪全く存在しない「対談」をあるものとして語ることと、存在している歴史的事実をないものとして語ることは、コインの表と裏ではないだろうか。≫(P42)

 歴史認識に関する講演会で、このような談話の「捏造」をみずからやってしまう櫻井に、歴史認識の話をする資格はない。日本の立場がますます悪くなるのも道理というものだろう。

 本題に移ろう。本書では、六人ほどの論客が批判されているわけだが、当然のことながら、批判の根拠、強弱、論点はそれぞれに違っている。また単に批判一色ではなく、認めるものは認める、例えば、中西輝政の初期の著書『大英帝国衰亡史』は、「目から鱗がおちる」読書体験だった、とまで山崎は正直に書いている。では本書で最も批判されているのは誰か、やはり西部邁だろう。

 西部については、なぜ西部が駄目なのかは、山崎が本書で徹底的に論証している。これは文芸評論家・山崎行太郎の本領が遺憾なく発揮されている場面だ。ただ私が注目したのは、この西部批判の、冒頭でも結びでもなく、真ん中あたりにさりげなく配置された次のような一節だ。

≪西部は、自殺した江藤について、『文学界』の江藤淳追悼号でかなり辛辣なことを書いている。西部はそこで、江藤淳の私生活を暴露しつつ、批判・罵倒している。ここに西部邁という思想家・言論人の存在、つまり「実存」を見ることができる。≫(P111)

 山崎はこのように静かに書いている。しかし、そのすぐあとに引用される西部が書いた追悼文の一節は、激しく鼓動している。むろん、山崎の鼓動がである。西部の江藤淳に対する罵倒を書き写す山崎の心境を、私は想像した。追悼とはなにか。死を悼む、死を悲しむ、そういうことではないのか。この追悼号で西部は、みずからの「保守思想」なるものをしゃあしゃあと披瀝している。

≪私の思う保守的思考はそういう性質のものである。その意味では江藤氏はかならずしも保守的ではない、と私は思わずにはおれなかった。(中略)要するに私は、江藤氏との距離感のうちに保守思想の何たるかを探ってきたという次第である。≫(P113)

 西部の「保守的思考」がどういう「性質」のものか、よくわかるというものである。追悼号という場でさえ西部は、自己宣伝にいそしむような、そんな「性質」なのだ。

 西部が、読まずにあれこれ発言することは、西部ファンの間でも有名なことらしいが、本書で紹介されている西部の小林秀雄理解(引用文あり)には、呆れ返る。漫談としてならば、笑えるだろう、そんな無茶苦茶なこじつけをおもしろおかしく語ってしまう「酔っ払ったピエロ役」として。しかし西部は大真面目なようなのだ。しかもその本はどうやら「保守とは何か」みたいな話である。この西部の話を読んでなるほどと思った人は騙されている。西部は小林秀雄をほとんど、あるいは全く読んでいない。その詳細を山崎が本書で論証している。

 最後に、次の一節に注目したい。

≪本書は「保守論壇批判」であるとともに、「江藤淳論」でもある。不思議なことに、本書で取り上げる保守思想家、保守系ジャーナリストたちの多くが、江藤淳を名指しで批判している。しかも、かなり激しく批判・罵倒している。≫(P13)

 西部や櫻井など、ろくに知りもしないことをさも知っているかのように吹聴し、その場しのぎのデタラメで「観客」を沸かせ、死を悼む場にあってもなお、自己アピールにいそしむ。山崎の静かな憤怒を想像せずにはおれない。本書は「江藤淳論」でもあるが、私には、死者(江藤淳)を冒涜した者たちへの仇討ちのような、そんな気概をも感じさせる本だ。

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