文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

俺には「アレ」が出来るだろうか? 「新潮45」の「『山中伸弥追い落とし』の策謀」を読む。サブタイトル「笹井と理研が仕掛けるSTAP戦争」。いずれも、ホンネ丸出しである。「小保方晴子バッシング報道」とは、ips細胞グループとSTAP細胞グループとの権力闘争だったというわけである。

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「俺には「アレ」が出来るだろうか? 」というのは、ドストエフスキー罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、「殺人」を目前にして呟く言葉である。「俺には「アレ」が出来るだろうか? 」の「アレ」とは何か。ドストエフスキー研究家清水正氏は、「アレ」とは具体的には「皇帝殺し」であり思想的には「飛び越え」だという。


「俺には「アレ」が出来るだろうか? 」という、この言葉は、時代的固定観念、あるいは常識論的地平を、「飛び越え」るということだ。良かれ悪しかれ、「渦中の人=小保方晴子博士」も、時代的固定観念、あるいは常識論的地平を、あるいは分子生物学固定観念の地平を「飛び越え」た人であり、「飛び越え」ることの恐ろしさとその深い意味が分かっている人である。だから、科学者と称する凡庸な「常識人たち」が、何と言おうと、簡単には折れないのである。


さて、この、執筆意図がミエミエの「新潮45」の露骨な「小保方晴子バッシング記事」を読んでいくと、僕は、かっての、マスコミが一丸となった「小沢一郎バッシング報道」を思い出した。おそらく、この一連の記事の筆者=「小畑峰太郎」は存在しない。筆者=小畑峰太郎とは、「新潮45本誌取材班」というところだろう。つまり、執筆者は、物書きとしての矜恃とプライドを持って、この記事を書いていない。何者かによって、政治的意図を込めて、書かせられている。


ということは、裏に、「山中伸弥追い落としの策謀」ではなく、「STAP細胞追い落としの策謀」とでも呼ぶべき「何か」、「政治的意志」がある。それは、小さいものではない。


そして、おそらく、 「小保方晴子」個人にはあまり関係はない。この事件の主人公は「山中伸弥」であろうと思われる。バッシングの狙いは「理研」や「笹井芳樹」である。いったい、誰が、あるいはどのような組織が、「理研=笹井芳樹追い落としの策謀」を画策しているのか?


何回も繰り返していることだが、僕は、この一連の「小保方晴子博士バッシング報道」を、最初から、「小保方晴子事件」とは思っていない。現代日本の「思想的堕落」を象徴する事件と思っている。だから、延々と「小保方晴子バッシング報道」ウオッチングを続けてきたのである。僕には、「小保方晴子博士バッシング報道」のウウオッチングが、とても面白い。次々と登場し、次々と消えて行く道化師たちの言説のほころびを観察することが楽しい。


つまり、僕は、「小保方晴子博士バッシング報道」問題を、思想問題として追求してきたのである。日本国民の多くが、いとも、簡単に「小保方晴子バッシング報道」に洗脳され、それに追随している。2チャンネラーから東大教授まで。そのテレビや新聞の扇動記事に乗せられ、付和雷同する様子に、ある種の違和感と思想的危機感と、そして同時に知的興奮を感じる。


僕は、『それでも私は小沢一郎を断固支持する』、『保守論壇亡国論』、『曽野綾子大批判』・・・を通じて、その問題を追求してきた。「小保方晴子博士バッシング報道」は、現代日本の「思想的堕落」を象徴する、一つの、典型的なケーススタデイである。面白いのだ。
(続く)





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昨日(5/31)、池袋東口ジュンク堂5Fで。『曽野綾子大批判』は、二カ所に並べてありました。

(5/31、Amazon書評から)
5つ星のうち 5.0
現代日本の軽薄なジャーナリズムを批判する書である。 2014/5/31
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大江健三郎の「沖縄ノート」を誤読しておきながら、言論で勝てないものだから裁判に訴えるという誠に卑劣な「お嬢さんババア」を完膚なきまでに打ちのめしたすばらしい作品である。》

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曽野綾子よ、反論出来るなら反論してみよ!!!
いつでも、受けて立つ覚悟は出来ている!!!
それとも、嵐が過ぎ去るのを待つつもりか?
(山崎行太郎)

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曽野綾子が、沖縄集団自決問題を論じた『ある神話の背景』は、全面的に、赤松部隊の制作した「陣中日誌」に依存している。だが、この「陣中日誌」は、1970年に、赤松部隊隊員=谷本小次郎によって、全面的に書き換えられた、歴史的資料価値ゼロの「改竄=捏造文書」であった。とすれば、大江健三郎を訴えた「大江・岩波裁判」の根拠となった曽野の『ある神話の背景』も、「改竄=捏造文書」だということになる。しかも、曽野が、赤松部隊の共同謀議の場所に参加している「証拠写真(下)」まで残されている。曽野綾子は、曽野の改竄=捏造、共同謀議参加・・・を告発した『曽野綾子大批判』に答えるべきだろう。それとも、無視し、この問題から逃げるのか? 逃げるとすれば、曽野綾子は、「文学者失格」ではないのか?
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曽野綾子が赤松嘉次や赤松部隊のメンバーと謀議を凝らしている写真は、これ。




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参考までに、「久米秋三郎」氏の、『保守論壇亡国論』書評(Amazon)を転載します。

5つ星のうち 5.0 江藤淳亡き後の廃墟、あるいは「愚者の楽園」, 2014/5/21
By 久米秋三郎Amazon.co.jpで購入。



レビュー対象商品: 保守論壇亡国論 (単行本(ソフトカバー))
私はここで批判・検討されている「保守論客」たち(渡部昇一西部邁櫻井よしこ中西輝政小林よしのり、など)に、以前からあまり興味がなかった。その発言にしろ、「姿」、立ち振る舞いにしろ何ら人をひきつけるものがないからだ。だから彼らが「保守論壇の重鎮」と目されていることが俄かには信じられないほどだ。

本書の著者・山崎行太郎の批判は厳密である。論拠がはっきりしている。かつ言葉に魂がある。それにひきかえ「保守論客」らの言葉には魂がない。なぜか。それは彼らの雑文や発言がその場限りのもので、その場をダマしおおせればそれでよしとする「大衆動員言語」、つまり「アジテーション」だからだ。山崎は、そのことをここで厳密に論証している。

例えば、櫻井よしこの悪意に満ちた「エイズ事件」の本、これは認識不足の域を超えて、明らかに故意に、わざと曲解して作られた偽書だ。本書を読めばその経緯がはっきり分かるが、もし合点がいかぬという櫻井ファンがいたなら、本書で参照されている本や裁判記録などを確認したらいい。(とはいえ、櫻井ファンが確認しないことは初めからわかっている。もしそのような作業を厭わない人であれば、櫻井のデタラメさに気づかぬわけがない。)

 これはほんの一例である。櫻井は他にも歴史認識に関する講演会で、福島瑞穂との「架空対談」をでっち上げたりもしている。「福島さんとこんな話をしましたよ」、という嘘八百をその場で、おそらく即興で作ったのだ、ご丁寧に、福島の口調までマネてだ。この件について福島は月刊誌『創』で次のように書いている。(P42)

≪全く存在しない「対談」をあるものとして語ることと、存在している歴史的事実をないものとして語ることは、コインの表と裏ではないだろうか。≫(P42)

 歴史認識に関する講演会で、このような談話の「捏造」をみずからやってしまう櫻井に、歴史認識の話をする資格はない。日本の立場がますます悪くなるのも道理というものだろう。

 本題に移ろう。本書では、六人ほどの論客が批判されているわけだが、当然のことながら、批判の根拠、強弱、論点はそれぞれに違っている。また単に批判一色ではなく、認めるものは認める、例えば、中西輝政の初期の著書『大英帝国衰亡史』は、「目から鱗がおちる」読書体験だった、とまで山崎は正直に書いている。では本書で最も批判されているのは誰か、やはり西部邁だろう。

 西部については、なぜ西部が駄目なのかは、山崎が本書で徹底的に論証している。これは文芸評論家・山崎行太郎の本領が遺憾なく発揮されている場面だ。ただ私が注目したのは、この西部批判の、冒頭でも結びでもなく、真ん中あたりにさりげなく配置された次のような一節だ。

≪西部は、自殺した江藤について、『文学界』の江藤淳追悼号でかなり辛辣なことを書いている。西部はそこで、江藤淳の私生活を暴露しつつ、批判・罵倒している。ここに西部邁という思想家・言論人の存在、つまり「実存」を見ることができる。≫(P111)

 山崎はこのように静かに書いている。しかし、そのすぐあとに引用される西部が書いた追悼文の一節は、激しく鼓動している。むろん、山崎の鼓動がである。西部の江藤淳に対する罵倒を書き写す山崎の心境を、私は想像した。追悼とはなにか。死を悼む、死を悲しむ、そういうことではないのか。この追悼号で西部は、みずからの「保守思想」なるものをしゃあしゃあと披瀝している。

≪私の思う保守的思考はそういう性質のものである。その意味では江藤氏はかならずしも保守的ではない、と私は思わずにはおれなかった。(中略)要するに私は、江藤氏との距離感のうちに保守思想の何たるかを探ってきたという次第である。≫(P113)

 西部の「保守的思考」がどういう「性質」のものか、よくわかるというものである。追悼号という場でさえ西部は、自己宣伝にいそしむような、そんな「性質」なのだ。

 西部が、読まずにあれこれ発言することは、西部ファンの間でも有名なことらしいが、本書で紹介されている西部の小林秀雄理解(引用文あり)には、呆れ返る。漫談としてならば、笑えるだろう、そんな無茶苦茶なこじつけをおもしろおかしく語ってしまう「酔っ払ったピエロ役」として。しかし西部は大真面目なようなのだ。しかもその本はどうやら「保守とは何か」みたいな話である。この西部の話を読んでなるほどと思った人は騙されている。西部は小林秀雄をほとんど、あるいは全く読んでいない。その詳細を山崎が本書で論証している。

 最後に、次の一節に注目したい。

≪本書は「保守論壇批判」であるとともに、「江藤淳論」でもある。不思議なことに、本書で取り上げる保守思想家、保守系ジャーナリストたちの多くが、江藤淳を名指しで批判している。しかも、かなり激しく批判・罵倒している。≫(P13)

 西部や櫻井など、ろくに知りもしないことをさも知っているかのように吹聴し、その場しのぎのデタラメで「観客」を沸かせ、死を悼む場にあってもなお、自己アピールにいそしむ。山崎の静かな憤怒を想像せずにはおれない。本書は「江藤淳論」でもあるが、私には、死者(江藤淳)を冒涜した者たちへの仇討ちのような、そんな気概をも感じさせる本だ。

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