文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「『論争』から逃げるような卑怯な奴は、さっさと引退しろ!!!ーー曽野綾子大批判(1)」

人気ブログランキングへ


大江健三郎と大江の著書『沖縄ノート』を名指しで批判し、いわゆる「沖縄集団自決論争」を仕掛け、挙げ句の果てに、保守論壇をも巻き込んで 、大江健三郎を「名誉毀損裁判」の被告席に引き摺りだした張本人が曽野綾子だが、その後、多くの資料や真相が暴露され、「名誉毀損裁判」が曽野綾子サイドの無残な敗北に終わると、一転、曽野綾子は、口を閉ざして、「沖縄集団自決論争」から、何事もなかったかのように、逃げ続けている。最近の曽野のエッセイ集などを読むと、曽野は、「作家であること」にこだわっているようだが、「作家」だというならば、過去の言論を検証され、批判され、論争を仕掛けられるのは当然であって、「論争」から逃げるなんて、恥ずかしくないのだろうか?


曽野綾子は、「沖縄集団自決論争」に触れるたびに大江健三郎の名前を出し、大江健三郎の『沖縄ノート』を読んだことが、『ある神話の背景』執筆の動機だったと書き、大江健三郎の取材方法や記事内容を執拗に批判し続けてきた。たとえば、「産経新聞「WILL」SAPIO」などみに書いただけではなく、「司法制度改革審議会」の議事録においてまで、大江健三郎批判を残している。


たとえば、平成12年10月16日(月)の「司法制度改革審議会議事録」に、曽野綾子の次のような発言が残されている。今では、これらの曽野綾子発言は「大嘘」「虚偽」「デッチアゲ」・・・だったことが、実証的にも、理論的にも明らかになっているが、曽野綾子は、それらの曽野綾子批判を黙殺し、頬かむりしたままである。


「作家の立場から」とか「専門の言語の視点から」などと、偉そうなことを言いながら、論争を仕掛けられ、都合が悪くなると、それを受けて立つどころか、沈黙、黙殺、逃亡。まったく「作家」や「言語」が笑うだろう。日本の「司法制度改革審議会」なるものも、この程度の議論から成り立っていたのである。あまりのレベルの低さに驚く。まさに笑うべし。


第34回司法制度改革審議会議事録



第34回司法制度改革審議会議事次第

日 時:平成12年10月16日(月) 9:29 〜12:10
場 所:司法制度改革審議会審議室
出席者
(委 員)
佐藤幸治会長、竹下守夫会長代理、石井宏治、井上正仁、北村敬子、曽野綾子、𣴎木 剛、鳥居泰彦、中坊公平、藤田耕三、水原敏博、山本 勝、吉岡初子
(事務局)
樋渡利秋事務局長
開 会
「法曹養成制度の在り方」について
閉 会



【佐藤会長】 それでは、ただいまより第34回会議を開会いたします。本日の議題は、「法曹養成制度の在り方」につきまして、意見交換を行うということでございますが、最初に曽野委員から20分ほどお話をちょうだいしたいと考えております。それから、前回の審議会において御意見をいただきました中間報告の項目案につきましても、皆様の御意見を踏まえて訂正したものをお示しして確定させていただきたいと考えております。できるだけ正午には審議会を終了したいと考えておりますので、よろしくお願いいたします。


 それでは、早速曽野委員からお話をちょうだいしたいと思います。お手元に今日レジュメが配付されておりますけれども、曽野委員どうぞよろしくお願いいたします。


 【曽野委員】 レジュメが短過ぎて申し訳ございません。本日は作家の立場から、この席で討議されておりました陪審制度について、また法学部教育について、いずれの面からも私の専門である言語の視点から、考えを申し述べたいと思っております本当のところを申しますと、実際に陪審制度が採り入れられたら、どういう問題が発生するかということは、今でも私には想像できません。しかしそれを言っていますと、永遠に発言の機会もなさそうなので、理解しているという「錯覚」の元にお話しすることをお許しください。


 裁判というものは、すべて言語を通じて行われるものですが、法廷では市民の日常生活とはかけ離れた特殊な言語が使われていますので、一般市民の多くは、それを正当に理解しないか、オーバーに感じるか、取り残された部分に戸惑うのではないか、と思います。


 弁護される場合も告発される場合も、そこで使われる言葉は、コンピューターの記号のような場合があり、それで「間違い」とは言えないまでも、決してその人の置かれた立場や心情を言い尽くしてはいない、という状態で進められる場合が多いのです。


 裁判の法廷で使われる用語が一定の形式を取ることに、私は異議を唱えているのではありません。もしそういう統一を図らなければ、人間は延々と思いを語り続けて止むところをしらないでしょう。しかし少なくとも、言語を楽しみ、言語と苦闘してきた私たちからみると、言語ほど難しいものはなく、それはあたかも流れる川の中で生きた魚を掴むのに似た難しさを感じさせるのです。


 過日ちょっと触れましたが、私は過去に書きました数冊のノンフィクションの中から、一つの作品を例に引いて、その作業の困難さをお話ししたいと思います。


 ここに持参いたしましたのは『或る神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』という本です。この話は、終戦の年の3月、沖縄本島上陸を前に、その南西の沖合にある慶良間列島の中の渡嘉敷島で集団自決が行われた、という事件です。当時島には陸軍の海上挺進第三戦隊の130 人が、ベニヤ板の船に120 キロの爆弾をつけて夜陰に乗じて、敵の艦艇に突っ込む特攻舟艇部隊としていました。


 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。


 当時の資料を列挙しますと、 1)沖縄タイムス社刊『沖縄戦記・鉄の暴風』 2)渡嘉敷島遺族会編纂『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 3)渡嘉敷村座間味村共編『渡嘉敷島における戦争の様相』 4)岩波書店『沖縄問題二十年』(中野好夫新崎盛暉著) 5)時事通信社刊『沖縄戦史』(上地一史著) 6)沖縄グラフ社『秘録沖縄戦史』(山川泰邦) 7)琉球政府沖縄県史8(沖縄戦通史)各論篇7』(嘉陽安男著) 8)岩波書店沖縄ノート』(大江健三郎著) 9)平凡社『悲劇の沖縄戦「太陽」(浦崎純著)



 などがあります。これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。


 私が赤松事件に興味を持ったのは、これほどの悪人と書かれている人がもし実在するなら、作家として会ってみておきたいという無責任な興味からでした。私は赤松氏と知己でもなく、いかなる姻戚関係にもなかったので、気楽にそう思えたのです。もちろんこの事件は裁判ではありません。しかし裁判以上にこの事件は終戦後25年目ころの日本のジャーナリズムを賑わし、赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

 
もとより私には特別な調査機関もありません。私はただ足で歩いて一つ一つ疑念を調べ上げていっただけです。本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。グループで会うと口裏を合わせるでしょうが、個別なら逆に当時の赤松氏を非難する発言が出やすいだろうと思ってそのようにしました。渡嘉敷島にも何度も足を運び、島民の人たちに多数会いました。大江氏は全く実地の調査をしていないことは、その時知りました。


 当時私はまだ30代で若く体力があったことと、作家になって15年以上が経過していたので、いくらか自分で調査の費用を出せるという経済的余裕があったことが、この調査を可能にしました。

途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。


 第二に、資料です。


 先に述べました資料のうち、1〜3までを丁寧に調べていくと、実に多くの文章上の類似箇所が出てきました。今で言うと盗作です。ということは一つが原本であり、他の資料はそれを調べずに引き写したということになります。それをさらに端的に現しているのは、これほどの惨劇のあった事件発生の日時を、この三つの資料は揃って3月26日と記載しているのですが、戦史によると、それは3月27日であります。人は他の日時は勘違いをすることがありましょうが、親しい人、愛する者の命日を偶然揃って間違えるということはあり得ません。


 つまり「沖縄県人の命を平然と犠牲にした鬼のような人物」は第一資料から発生した風評を固定し、憎悪を増幅させ、自分は平和主義者だが、世間にはこのような罪人がいる、という形で、断罪したのです。


 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまた沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかった、と言ってはいません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていない、と言うだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた紙が出てくるかもしれないではないですか」と答えたのを覚えています。しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。


 過日この席で、私のお隣に座っておられる𣴎木委員が、小声で私に、仮に私が陪審員になっても、与えられた裁判所の資料を信じないのか、と聞いてくださいましたので、私は「もちろんですとも」とお答えしたのです。しかしすぐ後で、私はその答えの軽率さが恥ずかしくなり、「科学的な結果は別ですよ。DNAの判定結果なんかは当然」と慌てて補足いたしました。


 このような調査は、まずすべてのものを疑うという姿勢から発します。裁判所は権威ある機関だから、疑念から省くなどということはあり得ません。それから、資金、時間、体力、事実を調べ上げていく独特の技術が要ります。空想や嘘ばかり書いているように思われている小説家ですが、実は長い年月その訓練を積んでいるからできるのです。もっとも今の私はもうまっぴらごめんという感じですが。


 しかしそういう訓練をしたことのない陪審員がいたとしたら、それは裁判所から与えられた資料によるほかはありません。それは付和雷同、風評による判断、悪くするとリンチの合法性にくみするだけでしょう。少なくとも私は良心にかけてはとてもできないことですし、私が裁かれる側としたらまだしも「玄人」に裁かれたい、と思います。その方があきらめがつきます。


 次に法律を学ぶ、法律に関わる、というすべての立場の人たちに関係のある「表現の問題」について述べます。


 一般的に言って、近年、表現力が低下しているのは恐るべきものです。私は毎年、数は多くありませんが、私が働いている財団の「入社試験」として書かれた小論文を読みます。一般的な知識を元に社会の常識から外れることなく、無難にまとめられたものはありますが、自分が個の視点からどう思うか、という論文には出会ったことがありません。


 入社試験で、個人の生い立ちや家族関係について聞いてはいけない、などと言うのですから、自分のことも語れない若者が増えて当然です。自分のことさえ正確に語れない人たちが寄っていて、どうして良心的で人間的な裁判が進められるでしょう。


 こうした傾向の背後には、様々な事情がありました。一時期、教員の情熱は、平等や公正といったものに対して、異常な執着を見せました。私たちは当然これらのものを希求しますが、それはこの二つが人生で行われるのは、ほとんど至難の業だということを知った上でのことです。


 この二つを叶えるためには、学生の答案を○×式にするほかはありません。なぜなら、作文を書かせれば、当然その採点には、採点者の嗜好が入ります。公正に採点するためには○×式の答え以外にないわけです。


 このようにして複雑な人間教育は破壊されていきました。


 裁判がより公正なものであるためには、それに関わるすべての人が、自由な表現力と、複雑な人間の心理に対する理解力を持っていることです。法廷では、対立する立場にある当事者たちが、その時何を考え、どのように行動し、その結果何を思ったかを理解しなければなりません。しかし今のような貧困な日本語の表現で、どうしてそれが可能でしょう。


 昔テレビやパソコンやテレビゲームなどのなかった時代には、私たちはもっと深くあらゆる人に接しなければ生きていけなかったのです。その結果私たちは、立派な人も卑怯な人も、円満な人も片寄った人もいることを知りました。その時一人一人独特の表現に、面白がったり、困らせられたり、当惑したりしました。


 しかし今多くの人々は、他人と深く関わりません。したがって自分とは全く違う人生の生き方をしている人がいるということを、知識としては知ってはいるかもしれませんが、実感しなくて済んでいるのです。


 法学部の教科課程にこそ、哲学、文学に触れる必要があります。私は一般的に中学高校から現代国語の時間をやめることに賛成なのですが、法学部においては、それらは必須のものでしょう。あるいはまた、違った職種の人たちに接触して、人生の裏表に精通した人になることです。


 法学部の一部を全寮制にして、夜は様々な人と語らう時間など必要でしょう。そうでなければ法律が服を着てそこにいるだけの未成熟な人間が、他者を判断することになります。能力のない法曹三者に身柄を預ける立場の人こそいい災難、ということになります。


 裁判の言語では、ある種の大切な日本語の機能が欠落するように見えます。


 羞恥、謙遜、反語を使った表現です。


 ことに最初の二つは、その人の性格、人生観、生き方をよく表しますが、裁判で争う時の文書に、このもっとも高度な精神的表現力を持つ日本語が自由に使われ、しかも意味を取り違えられないで済む、とは到底思えないのです。いささかの謙遜をみせたら、相手はそこを狙って衝いてくるでしょう。謙遜するのは、事実劣っているからだ、となるのです。しかし人間の中には、どうしても「そのような処遇を受けるのは、当たり前だ、とはいえない」心理の部分が残ります。それが「私のようなものが」という姿勢になったり「最初から私がその組織における地位は、まあ大きいポカをしなければいい、という感じのものでした」という表現になったりします。大きなポカをしなければいい、とは言っても、うまくいけばいい、人並みはずれた面白い仕事をしようと思っているのです。しかし保証がないから決して「私は必ずいい仕事をしてみせます」とは言わないのです。


 私たちの世界では、こうした含みのある言葉をしゃべらない人は、それだけで一つの性格の現れを示すとみるのです。むしろ言葉は水中の岩のようなもので、現れている部分は、隠れている部分のほんの一部に過ぎない、ということに面白さと美と、それから真理をも感じているのです。


 しかし人間の言葉のこの機能を面白がっていたら、法令を判断できない。法令をうまく使いこなせる人は、ますますこうした人間の心理の、「温かい混沌」から遠ざかることになります。


 法学部系のあらゆる教育機関は、たくさんの人の話を聞かせ、作文教育をしっかりし、まず自分の心をいかに十分に言い表すか、を習得させなければなりません。しかし皮肉を言うと、語るべき特別な思いもないというほど人生に対して無感動な学生も多いわけですから、毎月必ず数冊は古典、現代小説、戯曲、詩歌などを読ませてその都度ブック・レポートを出させ、かつ哲学を必修にすると同時に、哲学について酒を飲みながら語り合う夜の時間も必要です。また厳しい実生活に触れる旅や弟子入りの機会なども与えねばなりません。


 もちろんそんなことをしていたら、必要な知識を学ぶ隙がない、という反論が当然でるでしょう。ですからそれは、一般の学校、義務教育や高校でなすべきものである、ということは間違いありません。しかし現実問題として、法律の字句だけ知っている機械のような人間に裁かれたり、弁護されたりするというのはかなり迷惑なものです。これに対して、何も発言せず、放置したことに対して、まず(司法)制度を改革すべきでしょう。


 最後にこれと連動して、私には日弁連というものの、存在が理解できません。司法試験に通れば、だれでも自由に開業してよいのが当然で、何か事件があるごとに日弁連が代表して意見を述べることがどうして許されるのか奇妙です。悪徳弁護士が出て、その免許剥奪をする機関が必要でしたら、それだけ設ければいいのです。弁護士という人たちはそれほど同じ考え方をする奇妙な人たちですし、それを許しておくなら権威主義者の集まりです。法律の解釈がそんなに一致するなら、コンピューター弁護士でいいではありませんか。つまり「弁護士」とか「日弁連」とかいう商標の、非常に高価・高機能を有するコンピューターを作ればいいことです。すると法曹三者の増員どころか、弁護士の数がたちどころに余るでしょうから、裁判官の質も上がるかもしれません。


 私たちの世界にも、作家の利益を守るために日本文芸家協会というものがありますが、そこに入らなければ小説が書けないなどということはなく、しかも日本文芸家協会は決して思想的な問題の受け取り方についてはいかなる人も代表して意見など言いません。そんなことをしたら、越権として大問題になります。日弁連というところは、そういう点で、一般市民から不透明な印象をもたれています。これも、本当は改革の一つのテーマであるべきです。


 裁判というものに対して市民参加がより自由に可能になるということは、陪参審を採用するかどうかなどということではなく、まず日常の法律が、必ず守られ、施行されているか、ということです。


 建築基準を守っているのに、いちいち周囲の住民に気兼ねしないと建物が建たないような社会で、国民に法律を守れ、司法に参加せよ、などと言ってみても白けるだけだと私は思います。人間らしい言葉も使えない、読書もしない若者たちに、裁判で語られている人の苦悩が分かるはずはありませんから、裁判には最初からあまり期待しないというのが、実感です。「愛」というものを全く問題にせずに、人権でことをかたづけようとする人々が不思議と思われない社会ですから、司法が生命力を失っても当然です。


 言葉と魂は、ほとんど同一のものです。魂も言葉もやせてきた時代の危険性を十分自覚して御判断いただきたい、と思います。


【佐藤会長】 どうもありがとうございました。大変含蓄のあるお話であり、同時にまたいろいろ御異論のおありの方もあるかと思います。私も、おっしゃったことに深く共感するところがあります。前にも申し上げたことがありますけれども、例えば、憲法の授業などで、安全保障の問題を考えるときに、井上靖の『風濤』を、むしろいわゆる学術論文を読むよりもまずそういう小説を読めと学生に勧めてきました。これは、元という大国に接する小国たる朝鮮がいかに辛酸をなめ、国の独立安全を守るために悪戦苦闘したかについて書いた小説でありまして、この『風濤』をまず読めというようによく申してきました。ほかにもいろいろあるのですが、そういうことを言うと切りがありませんので、これ以上申しません。おっしゃることには私として非常に心打たれるものがありますけれども、曽野委員の具体的な御主張についてはいろいろリアクションがおありではないかとも思います。これからの法曹養成の在り方の議論の中で、今の曽野委員のお話も参考にしながら御議論いただければというように考えております。


 それでは、今の曽野委員のお話も踏まえまして、法曹養成制度の在り方について意見の交換を行いたいと存じます。前回は、文部省検討会議の最終報告の御報告を受けて、質疑応答を中心に審議を行いました。本当の意見交換は、その意味では、本日からということになります。お手元に前回の審議会の際にお配りしました「法曹養成制度の在り方についての審議事項(案)」というものをお配りしております。前回は法科大学院構想についての審議会委員だけの意見交換が余りできませんでしたので、文部省検討会議の最終報告を受けての法科大学院構想に関する意見交換のほかに、その次の新司法試験、あるいは司法(実務)修習の在り方も含めて、一緒に意見交換をしていただければというように考えております。


 さらに、時間がありましたら、実施に向けてのプロセスについても御意見を交換していただければというように考えております。

 順番としては、先ほど申しましたように、最初に法科大学院構想、新司法試験、あるいは司法修習の在り方という辺りからと思いますけれども、そしてその次に実施に向けてのプロセスについてという順番になるかと思いますけれども、必ずしもその順番にこだわらないで結構でございますので、自由に御発言いただければというように考えております。


 それでは、どなたからでもよろしゅうございますが、いかがでしょうか。


【𣴎木委員】 検討会議の報告の3ページ、「標準修業年限」、これを読みますと、何か3年制がベースだろうと思いますが、2年併存もありというお考えが提起されております。やはり2年と3年を混在させたりということはいかがかなと思います。勿論、法学部時代をどう評価するかとか、いろんな御議論の上でこういうふうになったんだろうと思いますが。


 逆にまた、2年制で済む人たちというのは、恐らくそれぞれの大学の自大学卒業生が比率としては非常に高くなるだろうと思います。そういう意味では、よりオープンにという意味も含めて、修業年限というのはやはり3年制ということで、一本化していくのがいいんじゃないかと思います。


【佐藤会長】 今の点について、検討会議ではいろいろな議論があったんじゃないかと思いますが、検討会議に参加された井上委員、鳥居委員、山本委員、吉岡委員の方から何か。(以下略)


人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ (続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから→http://www.mag2.com/m/0001151310.html


週刊金曜日」の「曽野綾子批判特集号」が発売中です。僕も寄稿しています。是非、お買い求めの上、お読みください。






人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ (続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから→http://www.mag2.com/m/0001151310.html



保守論壇亡国論』を読めば、「都知事選」や「沖縄集団自決論争」の真相が見えて来る 。










■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
保守論壇亡国論』発売中!!!
話題騒然!!! 増刷!!!
(曾野綾子論「保守論壇の『沖縄集団
自決裁判』騒動に異議あり!!!」も含む)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

ーーーーーーーーーーーーー

毎日新聞」「日刊ゲンダイ」「週刊ダイヤモンド」「サンデー毎日」、佐藤優/佐高信対談集『世界と闘う読書術』(集英社新書)・・・などに紹介される!!!

ーーーーーーーーーーーーー
紀伊国屋三省堂東京堂ジュンク堂・・・などに平積み「Amazon」、「楽天ブックス」ともに売り切れ=在庫不足でしたが、10/25、増刷完了。在庫不足は解消されました。近くに大型書店のない方は、Amazon楽天などのネット販売をご利用ください。
↓↓↓
Amazon
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4906674526?ie=UTF8&at=&force-full-site=1&lc



現在、Amazonでは売り切れ=在庫不足になっています。在庫不足が解消されるまでは、以下の楽天ブックスで・・・。
楽天ブックス

http://books.rakuten.co.jp/rb/保守論壇亡国論-山崎行太郎-9784906674527/item/12469849/
■■■■■■■■■■■■■■■■