文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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ドストエフスキーと『保守論壇亡国論』。私が『保守論壇亡国論』で強調した「存在論的思考」は、誤解を恐れずに言えば、「ドストエフスキー的思考」である。

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今日も宇都宮で、一日中、ドストエフスキーを読む。それにしても思い出すのは、インドネシア大学の図書館で、案内された鍵のかかる立ち入り禁止の部屋。この部屋は国宝級の古文書類が並べられ、温度、湿度などが一定に保たれていたが、この部屋の奥に、ドストエフスキー肖像画が飾られていたことだ。
しかも驚くべきことに、図書館の関係者や事務員たちが、このドストエフスキー肖像画に何の関心も興味もなさそうだったことだ。オランダ植民地時代に誰からか贈呈されたものらしいことは分かったが、それ以上はわからないらしい。ドストエフスキー研究家・清水日芸教授は、インドネシア大学図書館の奥深くに眠っていたドストエフスキー肖像画との出会いに驚き、興奮気味に写真を撮っている。
確かにインドネシア大学の学生たちは優秀だった。しかしインドネシア語ではドストエフスキーがまだ翻訳されていない、という。名前すら知られていないのかもしれない。ドストエフスキーの立派な肖像画は、よく全集や文庫本の表紙などに使われる、例の俯き加減の奴だが、図書館の奥に押し込められていても当然かも。ドストエフスキーを知らずに、そして読まずに林芙美子の『浮雲』を理解することは出来ない、と言うのが清水正教授だ。ちなみに、『浮雲』には、ドストエフスキーの『悪霊』からの引用が、多数、ある。林芙美子ドストエフスキーを意識していたことは明らかだ。
あるいは、日本とインドネシアの違いは、 そのドストエフスキーに対する姿勢にあるかもしれない。インドネシアの優秀な学生たちは、各国へ留学し、熱心に勉強するだろう。しかしドストエフスキーは読まないかもしれない。ドストエフスキーを読まずに学者や知識人になる。日本にも、そういう連中がたくさんいるだろう。最近の日本の言論空間が薄っぺらになったのは、そこに原因がある、と私は考える。
ドストエフスキー文学の本質は、「理性」や「合理性」で考える、いわゆる合理的思考のその先の思考を問題にしているところにある。人間は「理性」や「合理性」を「踏み超え」ていく。橋を渡るのである。「悪魔」や「狂気」「病気」の世界である。「悪魔」や「狂気」「病気」を忘れた思考には限界があると言わなければならない。
日本人はドストエフスキーが好きである。とりわけ文学者でドストエフスキーを読まない人はいない。たとえば、作家の中村文則が、最近、若い時、ドストエフスキーの『地下室の手記』を初めて読んだ時の驚きを書いていた。おそらく、それは中村だけではないだろう。私もまた、高校生の頃、『地下室の手記』を読んだ。その時の衝撃から、私は、文学や思想、哲学を一生の仕事にしようと決断し、現在に至っている。
私は、宇都宮で、『地下室の手記』を読みながら、私が『保守論壇亡国論』で強調している「存在論的思考」もまた、ドストエフスキー的思考なのだと考えないわけにはいかなかった。
地下室の手記』を読んで魂を震撼されたことのある人と、読みもしない人、あるいは、読んでも何も感じない人との違いは大きい。結局、私が、『保守論壇亡国論』で言いたかったことは、それだったような気がする。


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