文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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唯物論的転倒の哲学ー柄谷行人論序説(14)

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■借り物の思想家と自前の思想家の差異。
 借り物の思想と自前の思想は決定的に異なる。言葉や意味内容は同じように見えて、それが借り物のものであるか自前のものであるか、つまり偽物か本物かによって、その思想の与える印象や強度は異なる。一見、言葉や意味内容だけを見ていると、見分けがつかないが、そこを見分けるところに思想や批評の本質的課題がある。たとえば、「小林秀雄」と小林秀雄の模倣・反復でしかない「小林秀雄エピゴーネン」を区別することは容易である。「丸山眞男と」「丸山眞男エピゴーネン」の区別にしても、今なら容易だろう。すでに時間と歴史が、借り物の思想と本物の思想の差異を証明しているからである。しかし、それが、今、現在、現役の思想家や批評家、文学者などの語る言葉や思想からは、その差異を
区別することは容易ではない。したがって、しばしば偽物が、本物以上に蔓延ることになる。しかし、そういう時にも、本物の思想家や本物の批評家、文学者が登場すると、誰でも、あっこれが本物だと分かるものだ。最近は、本物と偽物を区別する思想そのものが批判され、本物も偽物もない、などというポストモダン的議論もないわけではないが、やはり、本物と偽物は同じではない。まぎれもなく本物と偽物の区別は存在する。
 たとえば、「対米自立」や「脱原発論」・・・というような思想は、かつての「反戦平和主義」や「戦後民主主義」のように、いまでは誰でもが理解し、誰もが容易に主張できる思想になっている。それが悪いと言うわけではないが、しかし、誰でもが理解し、誰でもが主張できる思想になった時、その思想の「思想的生命」は失われる。知識や情報としての思想は、もはや思想ではない。「対米自立」や「脱原発論」にも、そして「戦後民主主義」にも、むろん、戦前の「大東亜戦争イデオロギー」にも、その思想を生み出した思想家がいる。私が、本物の思想家、本物の文学者というのは、そういう思想を小泉純一郎産み出した思想家や文学者のことである。
 さて、今、現在、本物の思想家と呼べるのは、私にとっては柄谷行人である。柄谷行人以外には、自前の思想を展開している本物の思想家はいない。柄谷行人の思想や理論に賛成か反対かは別として、柄谷行人の思想や理論が、自前のものであり、つまり本物であることは否定できない。むろん、柄谷行人の言葉や理論を模倣反復することは容易である。したがって、柄谷行人エピゴーネンは少なくなないが、彼らは柄谷行人とは決定的に異なる。
 柄谷行人が、「文学界」2014/10月号に「秋幸または幸徳秋水」という論文(講演)を発表している。和歌山県新宮で開かれた夏季特別セミナー「ケンジアカデミア」(熊野大学主催。八月三―五日)で行われた講演の草稿らしい。「ケンジアカデミア」は、二十年前に亡くなった作家・中上健次を記念して、毎年、中上健次の故郷である和歌山県新宮で行われている夏季セミナーである。中上健次の文壇デビュー前からの古い友人であった柄谷行人も、この夏季セミナーに深くかかわっていることは言うまでもない。「秋幸または幸徳秋水」という論文(講演)の冒頭で、柄谷行人は、こう言っている。


≪私は久しく文学について考えていなかったのですが、今日は、中上健次没後20年記念ということで、中上の文学について、そして、自分が文学批評としてやってきたことについてふりかえってみたいと思います。≫


 柄谷行人は「漱石論」で文壇にデビューした。その時の柄谷行人に、文学的影響を与えたのは、誤解を恐れずに言えば、江藤淳であり、小林秀雄であった。柄谷行人の批評的出発を飾る「漱石論」は、明らかに江藤淳の『夏目漱石』論と『小林秀雄』論なしには考えられない。今日、柄谷行人を読む人たちは、江藤淳よりも、マルクス中上健次坂口安吾、あるいはポストモダン的なフランスの左翼思想家等を思い浮かべるかもしれないが、それは思想家や文学者の「誕生の秘密」を知る上では、大きく間違っている。柄谷行人は、思想的には、あるいは政治思想的には、学生時代から「左翼(ブント)」であり、今もそうである。江藤淳小林秀雄とは、明らかに政治思想的立場は異なる。しかし、思想や文学の
本質において、柄谷行人は、小林秀雄の批評的自意識を受け継いでおり、もっと具体的に言えば、柄谷行人の一連のマルクス研究は、小林秀雄マルクス論を受け継ぎ、それを発展させたものである。
 柄谷行人が若い時から盟友として切磋琢磨してきた作家・中上健次もまた、江藤淳小林秀雄の影響を強く受けている作家である。柄谷行人中上健次を結ぴつけたものも、実は「左翼的なもの」というよりは、江藤淳小林秀雄的なもの、つまり「保守的なもの」なのである。ちなみに、二人には、『小林秀雄をこえて』という長編の対談集があるが、これは小林秀雄を批判しながらも、小林秀雄的なものの影響をいかに強く受けてきたかを告白した本である。
 柄谷行人江藤淳小林秀雄は、左翼と右翼、革新派と保守派、というように、むしろ対極にあると言っていい。それ故、現在、保守論壇や保守思想家たちは柄谷行人を読まない。同時に江藤淳小林秀雄も読まない。このことから、いわゆる保守論壇や保守思想家たちの間では、左翼思想家・柄谷行人を評価するものは少ない。そこに、保守論壇や保守思想家の思想的劣化があることは言うまでもない。柄谷行人の思想の原点には、江藤淳小林秀雄、あるいは福田恒存等の「保守思想」が流れ込んでいる。言い換えれば、今日、江藤淳小林秀雄、あるいは福田恒存等の「保守思想」を、その思想的原点に立ち返って読みたければ、柄谷行人を読むしかないというのが、私の判断である。つまり、私が、柄谷行
人こそ本物の思想家であると見做すのは、柄谷行人こそが、江藤淳小林秀雄、あるいは福田恒存等の「保守思想」を、正当に受け継ぐ思想家であるということでもある。
中上健次の文学は「北村透谷的転倒」の上に成立した文学である。
 さて、柄谷行人は、「文学界」10月号に「秋幸または幸徳秋水」という論文(講演)で、何を語っているのか。もちろん、中上健次と縁の深い人たち、たとえば新宮の医師・大石誠之助、新宮出身の作家・佐藤春夫、そして新宮で起こった「大逆事件」や、明治初期の「自由民権運動」の関連で、幸徳秋水田中正造中江兆民社会主義者無政府主義者らを論じている。たとえば、『日本近代文学の起源』(柄谷行人)で、柄谷行人は、近代文学は、国木田独歩による「どうでもいいもの」としての「風景の発見」、つまり「大事なもの」を黙殺するという「認識論的転倒」によって始まったと言うが、今度は、自由民権運動大逆事件を例に引きながら、それを政治的な文脈に言い換える。


≪たとえば、最初に近代文学の内面性をもった文学者は、北村透谷です。彼は、明治10年代半ばに、自由民権運動が後退し、自由党左派による爆弾闘争が始まった時点で、そこから脱落した人です。しかし、彼は現実の政治的世界に対して、文学的想像力によって対抗しようとした。彼の言葉でいえば、「想世界」によって現実世界に対抗しようとした。1960年代には、透谷に近代文学の起源を見る見方が流行していました。私は、別にそのような考え方に反対ではありません。しかし、1970年代半ばになって気づいたのは、日本の近代文学は透谷的な転倒の上に成立したのではない、それは国木田独歩のような転倒によって成立した、ということです。≫
 

ここで、柄谷行人は、「透谷的転倒」と「独歩的転倒」を区別している。そして近代文学の主流は、透谷ではなく独歩的な転倒の上に成立し、発展したと考えている。言い換えれば、透谷的な転倒の上に成立し、発展していったかもしれない「もう一つの近代文学」は忘れられていったというのである。では、北村透谷的な転倒の上に成立したかもしれない近代文学とは、どういう文学だったのか。それは、自由民権運動の挫折を受け止める政治的な文学だったということが出来る。
 つまり、国木田独歩的な転倒によって、たとえばそれまで「雑木林」に過ぎなかった武蔵野の風景が、あたかも語るに足るもの、描くに値するものとして発見され、つまり「風景の発見」が行われたが、これは、「大事なもの」、つまり「自由民権的なもの」を忘れ、「どうでもいいもの」、「重要でないもの」の中に意義を見出すと言う近代文学的な認識論的風景の発見であった。それは、坪内逍遥の小説理論である「没理想」理論に通じるものであり、以後の近代文学は、この「どうでもいいようなもの」にこだわり、「大事なもの」、つまり「政治思想的なもの」を描くことがなくなったのである。では、日本近代文学が成立した「明治20年代」という時代はどういう時代だったのか。


 ≪「明治20年代」は、西暦でいうと、1890年代にあたります。つまり、それは世紀末なのです。さらにそれは帝国主義が全面的になった時代です。現に、日清戦争が(1894年)が起こり、次に日露戦争(1904年)が起きています。ところが、「明治」という枠組みで見ると、このような過程は、日本が西洋列強の支配下の下で、産業的・軍事的に発展を遂げ、日露戦争に勝利し、徳川時代に結ばれた不平等条約の改正を遂げるにいたったという、感動的な話になる。すなわち、司馬遼太郎坂の上の雲』のような味方になる。また、文学の領域では、明治20年代に近代文学が成立したといえば、それは、明治維新以来日本の文学が近代化を遂げたというような話になってしまいます。しかし、1890年代は、世界的な帝国主義の状況の下で、日本が帝国主義に転じた時期です。いいかえれば、私が『日本近代文学の起源』で述べた事柄は、帝国主義の時代に起こったことなのです。≫


 「明治20年代は帝国主義の時代であった」。これが「忘れてはならないもの」「大事なもの」である。 柄谷行人は、これと同じようなことが、中上健次村上春樹の間でも起こったと考える。つまり、村上春樹の文学は、国木田独歩の文学のように「大事なもの」を忘れ、「どうでもいいようなもの」に意義を見出すような風景と文体を確立した文学であるのに対し、中上健次の文学は、北村透谷と同じような、その死が象徴するように、「大事なもの」に拘ることによって挫折せざるを得なかった文学である。言い換えれば、村上春樹的な「新自由主義」の背後には、中上健次的な「帝国主義」が隠されている。現代は、新自由主義の名を借りた帝国主義の時代だ、と柄谷行人は考えている。柄谷行人の思考力が全開した論文である。


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