文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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柄谷行人論序説(11)

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小林秀雄の影響の下に。

柄谷行人の思考の原点には小林秀雄があると言ったが、ここであらためて柄谷行人小林秀雄の関係について考えてみたい。最近の柄谷行人の読者の多くは、小林秀雄を読む者は少ない。小林秀雄を読んでいるとしても、小林秀雄柄谷行人のように理解し、影響を受けている人、つまり小林秀雄が分かっている人は少ない。最近の柄谷行人の読者の多くは、柄谷行人の理論やイデオロギーは理解しているかもしれないが、柄谷行人の批評家、思想家としての「資質」や「体質」、つまり「思考のスタイル」については知らないのではなかろうか。私が、柄谷行人には興味あるが、柄谷行人エピゴーネン柄谷行人の模倣者、柄谷行人の後継者・・・には興味がないのは、そのためである。
 柄谷行人は、吉本隆明について、吉本隆明は多くの多くの熱狂的な読者に囲まれていたが、孤独だったと言っている。同じことが柄谷行人についても言えるように思われる。柄谷行人は、現在、マルクスや哲学、経済学、資本論、西欧思想・・・などに言及することが多い。したがって、柄谷行人の最近の読者は、マルクスや哲学、経済学、資本論、西欧思想・・・に関心が深い人だと思われる。逆に、現在の柄谷行人は、文学や小説について言及することは少ない。したがって柄谷行人が、もともと、何をやっていたかということは忘れられがちである。
言うまでもなく柄谷行人は文藝評論家であり、文藝評論を書くことから、言論活動を始めた人である。この事実は、私にとっては重要である。確かに学生時代、左翼学生として、つまり「ブント(共産主義者同盟)」の活動家として、それなりに熱心に活動していたらしいが、その政治活動が終わると同時に、大学院に進学し、英文学を専攻、そして卒業とほぼ同時に「群像新人賞」を受賞し、以後、文藝評論家として活動している。
 左翼学生運動から文藝評論家へという転身の仕方に、いわゆる「転向」を想起する人もいるかもしれないが、柄谷行人の場合、それは当てはまらない。文藝評論家としての柄谷行人は、前回も述べたように、小林秀雄福田恒存江藤淳・・・というような保守思想家とも言うべき文藝評論家たちから多く学び、むしろ左翼系の文藝評論家や作家たちを厳しく批判してきた。柄谷行人は、しばしば「転向者」として批判、指弾されたが、かし、その後、『マルクスその可能性の中心』を書き、マルクスや左翼思想に言及し始めることでも分かるように、思想的には一貫している。今では、語るに値する、唯一の左翼思想家と言っていい。つまり、小林秀雄江藤淳のような保守思想家から多くを学んだだ ろうが、その文藝評論家としての「思想的精髄」を学んだのであって、その政治的イデオロギーを学んだのではない。
 それでは、柄谷行人は、小林秀雄から何を学んだのか。言い換えれば、何を学ばなかったのか。
柄谷行人は、『マルクスその可能性の中心』「序章」につづく「第二章」の冒頭で、小林秀雄をこういうふうに紹介する。

マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめなければならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さがみえてこないのである。たとえば,『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して,小林秀雄はつぎのように言っている。≫



 次は,柄谷行人が引用する小林秀雄の文章である。


≪;商品は世を支配するとマルクス主義者は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それはリッパな商品である。そして、この変貌は,人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。≫(小林秀雄『様々なる意匠』)


小林秀雄の『様々なる意匠』の文章を引用した後で、これに対して、柄谷行人はこうコメントしている。


≪むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に,商品は消えうせる。そこにあるのは,商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。≫


私の考えでは、ここに柄谷行人マルクス論のモチーフは、すべて出ている。ということは、柄谷行人マルクスの原点が、少なくとも小林秀雄マルクス論と無縁ではない、いやそれどころか、すばり、そのものだということを意味していると言って、ほぼ間違いない。
その証拠に、小林秀雄からの引用は、『マルクスその可能性の中心』の「あとがき」にも見られる。そこでも、柄谷行人は、かなり決定的なことを言っている。


 ≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫(柄谷行人マルクスその可能性の中心』)


現在の柄谷行人という思想家を象徴する「記念碑的代表作」が『マルクスその可能性の中心』であるが、そこで、柄谷行人小林秀雄を引用し、小林秀雄マルクス論から学んだと言っているわけである。むろん、柄谷行人が学んだのは、小林秀雄の「保守思想」ではない。「批評的センス」、ないしは「思想的センス」とでも呼ぶべきである。私が、柄谷行人は、小林秀雄江藤淳から政治的イデオロギーではなく、たとえば「国家観」とか「歴史観」とかいうような、最近の保守論壇の面々が濫用する、出来合いの政治的イデオロギーではなく、小林秀雄の「思想の精髄」を学んだと言うのはこのことである。
柄谷行人が、ここで、「驚き」と言っている言葉に注目したい。「言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。」と。
この「驚き」とは何か。この驚きこそ思想的精髄と呼ぶべきものだろう。
柄谷行人マルクス論は小林秀雄マルクス論を下敷きにしている。
 ここで、柄谷行人は、自分のマルクス論のモチーフは、小林秀雄譲りのもの、あるいは小林秀雄の「受売り」だと告白しているに等しい。なぜ、柄谷行人は、こんなにあっさりと小林秀雄の影響を認めてしまうのか。おそらくそれは、柄谷行人が、小林秀雄と言う存在をかなり高く評価しているということだろう。むしろ、小林秀雄の系譜に連なることを存在証明にしようとしているようにさえ、見える。
 いずれらにしろ、柄谷行人マルクス論は、小林秀雄マルクス論を下敷きにしている。柄谷行人は、左翼のマルクス論からは、根本的な影響を受けていない。それは、小林秀雄という文藝評論家、ないしは思想家の才能と資質に、柄谷行人が共感していることを意味する。マルクスに関する、単なる知識や解説、理論の類ならば、左翼のマルクス学者やマルクス研究者の方が詳しいに決まっている。しかし、柄谷行人が注目するのは、そういう知識や解説、理論の類ではない。小林秀雄の批評的センス、思想的センスのようなものであろう。


言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。≫


 「したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえない」・・・。この言葉の中に、小林秀雄にしか持ちえない何か、小林秀雄にしか分かりえない何かがあり、それを、柄谷行人自身も「分かる」と言っているのである。「言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない・・・」ということで、「専門家」としての言語学者や経済学者の思考のレベルが違うと言っているのだ。これは、知識の量でも、専門知識の深さでもない。繰り返して言うが、「批評的センス」「思想的センス」であって、努力して身に着けられるという類のものではない。この思考のレベルの「差異」を、私は、イデオロギー的レベルと存在論的 ㇾヘルだと言いたい。


   ≪明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。≫


小林秀雄が光っている」のは、何故か。何故、柄谷行人にとって「光っている」のが、小林秀雄でなければならないのか。そこに柄谷行人の本質もある、と私は考える。つまり思考のレベルの差異である。その思考レベルの差異が、小林秀雄小林秀雄以外の思想家たちとを分かつのである。
柄谷行人は、同じようなことだが、小林秀雄三木清を比較して、こういうことも言っている。


≪たとえば、三木清小林秀雄を比べてみればよい。驚くべき秀才の三木清にとって、西欧の反近代的思想を把握することなど造作ないことであり、しかも単なる西洋派ではなく、それを西田幾多郎の哲学と結びつけることすらたやすかった。また彼はたくみに文学評論を書いた。しかし、いうまでもなく彼は「批評家」ではなかった。彼は哲学を読み「問題」をつかむことができたけれども、「問題」の中で既に消去されてしまっているパラドックスを読むことができなかった。≫(柄谷行人『批評とポスト・モダン』)


 柄谷行人が、小林秀雄の中に何を見ていたかは明らかであろう。要するに、三木清のような「秀才」「物知り」「勉強家」・・・には見えないものを見る力、つまり「パラドックスを見る力」が小林秀雄にはあったというわけだ。三木清のような秀才は、パラドックスに驚き、その前に立ち止まることをしない。どうするか。そ
パラドックスを「解決」し、「解消」してしまうのである。さらに福田恆存ヘーゲルを例にとって説明している。




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