文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小沢一郎は復権出来るか?

しばらく政治の話から遠ざかっていた。政治や経済の話から遠く離れて、文学や哲学、思想の世界に沈潜し、原理的な問題や存在論的問題を僕なりに沈思黙考していたからである。ドストエフスキーの『地下室の手記(記録)』、『清水正ドストエフスキー論全集』、プラトンの『国家』、ギリシャ哲学の思想と歴史、ハイデガーハンナ・アーレントの『往復書簡』、トマス・マンの『ヴェニスに死す』、ロートレアモン の『マルドロールの歌』・・・を手当たり次第に乱読・雑読するうちに、新聞やテレビが騒いでいる政治や経済の話に夢中になっている自分が、そして、定年後の年金生活を楽しんでいる老人たちと居酒屋談義レベルの政治漫談に現を抜かしている自分が、嫌になってきたからである。お前がやりたかったことは、そんなことではないだろうと囁く声が、遠くから聞こえてきたのだ。しかし、たとえば、ハイデガーの『存在と時間』は観念論的闘争の記録、つまり抽象的学問研究の記録ではない。つまり「山上の垂訓」ではない。ハンナ・アーレントという具体的・現実的な「女性」との激しい恋愛の渦中から生み出された唯物論的闘争の産物なのだ。そして一方では、ハイデガーは、ナチスに入党する。大学総長就任演説では、『ドイツ大学の自己主張』(Die Selbstbehauptung der deutschen Universität)なる演説を行い、ナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えたのだ。ハイデガーにとって哲学も批評も詩も絵空事でも綺麗事でもなかった。また小林秀雄の「批評」も、中原中也の「詩」も、長谷川泰子という「女性」を挟んでの過激な三角関係の苦闘の中から生まれてきたのだ。現場・歴史を放棄して「観念論的闘争」に浸るのは哲学でも批評でも詩でもない。歴史や政治を放棄して、 抽象的な「観念論的闘争」に浸るのも「負け犬の遠吠え」の類にすぎない。観念論的闘争、それは僕の精神の一部が衰弱していることではないか。真の闘争は、「今、此処・・・」でおこなわれているのだ。つまり政治闘争も常に「唯物論的闘争」なのだ。気を取り直して、山から降りて、現実の闘争の場所へ赴かねばならない。僕が、かなり昔から「「小沢信者」であるのは、小沢一郎という政治家が、終始一貫して「唯物論的闘争」の人だったからだ。(続く)


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小沢一郎の政権奪取演説。

http://m.youtube.com/#/watch?v=w40QvwRP7YM&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3Dw40QvwRP7YM



★小沢代表に選挙戦略を聞く。豊島公会堂で。