ニコライ・スタヴローギンの帰郷ーー清水正の「悪霊論」三部作を読む。ーー
ニコライ・スタヴローギンの帰郷ーー清水正の「悪霊論」三部作を読む。ーー
私は、ドストエフスキーを読むことは好きだが、ドストエフスキー論やドストエフスキー研究の論文を読むことは、わずかに小林秀雄のドストエフスキー論を除いて、あまり好きではない。はっきり言うと、嫌いだ。ドストエフスキーのテキストは底知れない深さを持っている、とドストエフスキー研究の第一人者である清水正日大芸術学部教授は言うが、江川卓の『謎解き』シリーズをはじめ、ドストエフスキー論やドストエフスキー研究の論文には、そういう深さが欠如しているように思われるのだ。私は、その「深さの欠如」したドストエフスキー論やドストエフスキー研究を読むのが嫌いなのだ。つまり、知識や教養としてのドストエフスキー論なら、読む気がしないのである。植谷雄高のドストエフス
キー論や高橋和巳のドストエフスキー論、さらには森有正や滝沢克己、最近の山城むつみや亀山郁夫のものまで、私は、わざわざ手にとって読む気がしない。ドストエフスキーを「文学と思想の師」として畏怖し、敬愛する私としては、一時は、ドストエフスキー研究やドストエフスキー論の類いを、外国の文献を中心に片っ端から集めたことがある。しかし、それでも、やはり読めなかった。
では、例外的に、小林秀雄のドストエフスキー論を読むのは、何故か。
小林秀雄のドストエフスキー論は、知識や教養としてのドストエフスキー論ではなく 、小林秀雄自身の内在的論理、内在的思考の成果としてのドストエフスキー論だと思うからだ。つまり、私にとっては、小林秀雄は、ドストエフスキーの思考の深さに匹敵する深い思考の持ち主なのだ。私は、「踏み越える」という思考の過激性を、小林秀雄のドストエフスキー論、と小林秀雄自身の著作から学んだ。小林秀雄の著作を、私は、ドストエフスキー的な「踏み越え」の実践として理解した。二十歳前後のころであるが、私の文学や思想の原理原則は、その頃から変わらずに一貫している。
さて、日大芸術学部に「非常勤講師」として呼んでくれたのは清水正日芸教授である。それ以来、やがて10年近くなるが、私が出講する金曜日には、毎週、江古田近辺の居酒屋でドストエフスキー論の「講義」を受けている。ドストエフスキーを魚に酒を飲むのである。しかし清水氏は、お酒を飲むことよりもドストエフスキーについて語ることに熱心だ。しかも、私は、清水氏に、その膨大な量に及ぶドストエフスキー研究やドストエフスキー論の著書や論文のほとんど全てを頂いている。読まなければならない、と思うのだが、なかなかその気にならない。何故か。
ドストエフスキーに関しては、早い段階から、清水正こそが「日本一」、いや「世界一」だと思っているが、しかし、それでも、私は、清水正のドストエフスキー論を「読む」、つまり小林秀雄のドストエフスキー論を読むように「熟読」する気にならなかった。私が「読む」とは、テキストに傍線を引きつつ、何回も何回も繰り返し、反復しながら「熟読」することだ。
清水氏のドストエフスキー論が読めるようになったのは、つい最近だ。そのきっかけは、本書に収録される『悪霊』論三部作だった。『悪霊』論三部作には、明らかに清水正の独特の思いが籠もっている。それが分かり掛けた時、清水正の世界が私の前に開かれてきた。
私は、昨年四月から、某所で、学生達と一緒に、亀山郁夫新訳で、『カラマーゾフの兄弟』から始まって、『罪と罰』、そして『悪霊』を読んでいる。そして、今年、『悪霊』を読み始めた頃から、突然、清水氏の『悪霊論』が読めるようになった。つまり、小林秀雄のドストエフスキー論を「熟読」するように、清水氏の『悪霊論』を「熟読」するようになった。それは、清水氏の『悪霊論』が、知識や教養としての『悪霊』論ではなく、清水氏の人生そのものを賭けた、いわゆる「内在的論理」に基づく「内在的思考」「存在論的思考」の産物としての『悪霊論』だということが、それこそ内在的に実感できたからだ。
たとえば、清水氏は、「ニコライ・スタブローギン」の数々の乱暴狼藉、つまり「悪」について、「漫画チック」「大げさな」と書いている。「ニコライを神話化するような見え透いた作者の意図が伺える」「わざとらしい」と言う。なるほど、そう言えば、そうだ。ニコライ・スタブローギンの「決闘」や「放蕩」は、老婆二人を、斧で撲殺したラスコーリニコフの「悪」にも遠く及ばない。不良少年の虚勢的な犯罪にすぎない。では、ラスコーリニコフとスタブローギンの「悪」の違いは、何処にあるのか。
そこで、清水氏は、ニコライ・スタブローギンの「悪」は、母親への犯行=反抗と読み解いている。つまり、ニコライ・スタブローギンは母親の溺愛の元で育ち、まだその母親の呪縛を脱しきっておらず、それ故に母親の願いを聞き入れて、故郷スクヴァレーニシキへと帰郷するわけであり、それと同時に「母親からの自立」の試みとしての数々の乱暴狼藉、反抗(悪)が繰り返すというわけだ。
たとえば、『罪と罰』のラスコーリニコフは、老婆二人を惨殺するという決定的な「踏み越え」によって、「母親からの自立」「母親の呪縛からの切断」、つまり「母殺し」に成功した。その結果、母親は狂死さえする。それに対し、ニコライ・スタブローギンは、母親ヴァルバーラの呪縛霊から解放されていない。つまり、「母殺し」に失敗し、未だに母親ヴァルヴァーラの支配下にあり、言うなれば、まだ大人になれない「永遠の子供」「永遠の少年」に留まっている、と清水氏は分析する。同じことが、この小説のもう一人の主役であるステパン先生(ステパン・ベルホヴェンスキー)にも言えると言う。
進歩的文化人ステパン先生もまた、ヴァルヴァーラ夫人の愛人として、生活も思想もヴァルヴァーラ夫人に依存している、いわゆるいつまでも、自立できない「永遠の少年」であるという。
そして、この『悪霊』という小説は、最後に、ステパン先生の家出と急死、ニコライ・スタブローギンの自殺とで幕を閉じるが、これらは二つとも、「太母ヴァルヴァーラ」からの脱走と自立の試みの挫折、つまり「母親殺し」の挫折を意味している。
これだけなら、そのテクスト分析の鋭さを認めたとしても、分析内容は別に驚くべきことではないかも知れない。これもまた知識や教養にすぎないからだ。
しかし、清水氏の最近の著作『林芙美子と屋久島』を読むと、「母親殺し」という問題が、単なる知識や教養ではないことが分かる。
丁度、清水氏がドストエフスキー論を書き続けていた頃、清水氏の母は、癌で死の床に伏していたという。詳細は省略するが、要するに、清水正もまた、母親の溺愛の元に育ち、母親の期待を一身に集めていた「母親っ子」であったと思われる。死に行く母親の看病を続けながら、清水氏は、ひたすらドストエフスキーを読み、ドストエフスキー論を書き続けていたというのである。清水氏に「母親の問題」、つまり「母親殺し」という問題が、見えてきたのは当然だろう。清水氏は、この時、単なるドストエフスキー研究者ではなく、清水氏自身がドストエフスキーになっていたと思われる。私が、清水正の『悪霊論』を読み始めることが出来たのも、そこに理由がある。
清水正の『悪霊』論三部作には、清水氏の「母親の死」が隠されている。つまり、清水氏の「母殺し」論は、単なる知識や教養ではなく、清水氏の「内在的論理」「内在的思考」に貫かれているということだ。私は、このことを知った時、はじめて、清水氏のドストエフスキー論が読めるようになった。つまり、そこまで理解できた時、清水正の『悪霊論三部作』を熟読し始めていた。
さて、私は、今、この文章を、鹿児島県の片田舎にある私の実家=生家で書いている。言うなれば、私の「スクバレーニシキ」である。すでに母も父も亡いが、私の場合は三人兄弟の末っ子だが、私もまた溺愛する「母親の呪縛」を感じながら、育った。清水氏の『悪霊論三部作』を読みながら、「母親っ子」であった自分と、そして母親との愛憎入り混じった、長い長い闘争の歴史を思い出す。
私は、長い間、「父親殺し」という問題に拘ってきた。二十代の時、父親が死んだからだ。私は、その時、フロイドの「ドストエフスキーと父親殺し」を読み、「父親殺し」というテーマから自由になれなかった。同じ頃、清水氏は、父親ではなく母親の死を通して、「母親殺し」という問題に直面していたと思われる。私は、清水正の『悪霊論』を読んで初めて「母親殺し」というテーマに目覚めた。
清水氏の『悪霊論三部作』は、清水氏のドストエフスキー論、ドストエフスキー研究の中でも、その分量といい質といい、かなり異色である。まだまだ、清水正の『悪霊論三部作』には謎が多い。たとえば、宮沢賢治の「イーハートーヴ」とステパン先生が目指す「ハートヴォ村」の類似性とか、語り手の「私」として登場する「アントンG」の素性は、実は当局から派遣されたスパイだったとか、あるいはピョートルも、当局から派遣されたスパイ、つまり革命組織潰しの秘密工作員だったとか・・・。
ドストエフスキーの『悪霊』そのものと同様に、清水正『悪霊論三部作』もまた、傍線を引きつつ「熟読」を繰り返さなければならない書物だ、とあらためてと思う。