文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

東日本大震災と芭蕉「野ざらし紀行」・・・。ドサクサに紛れて駄本を出しまくる「大震災・原発文化人 」にモノ申す。大震災や原発事故を、つまり他人の不幸を喰い物にし、メシの種にするなかれ。それにしても高橋源一郎から加藤典洋まで、どいつもこいつも、口の軽い馬鹿に限って、「3・11本」を出しまくっている。これぞ、「馬鹿の証明」「文学者失格」と言うべし。さて、小生は、今朝、仙台を出発、塩釜から松島へ。松島から平泉へと向かう。芭蕉は、松島の絶景に感激し、言葉を喪ったという。例によって、「奥の細道」で芭蕉は言う、「いづれ

芭蕉は、「奥の細道」の旅の5年前に「野ざらし紀行」の旅に出ている。そこで作った句が、「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」・・・。僕は、この句も、「野ざらし紀行」も、井口時男氏のエッセイを読むまでは、漠然と知ってはいたが、特別の関心を持って熟読したことはなかったので、 「泣き叫ぶ子供を見捨てて、立ち去る・・・」芭蕉の厳しくも、非情なる「文学精神」、ないしは「批評精神」とでも呼ぶべきものを知って、ちょっと驚いた。井口は、こう書いている。


芭蕉はその五年前、「野ざらし紀行」の旅をしていた。富士川のほとりで三歳ばかりの捨て子が泣いているのに遭遇した芭蕉は、わずかな食物を投げ与えて立ち去った。その時の句。
「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」
猿の泣き声が腸(はらわた)を断つほど哀れに響く、という古典の詩を踏まえて、秋風に泣く捨て子の声はもっと悲痛に人の心を責めるものだ、という意味である。そして芭蕉は書く。「ただこれ天にして、汝(なんぢ)が性(さが)のつたなきを泣け」と。お前が捨てられたのは天の定めた運命というものだ、お前は父母をも誰をも怨んではならない、ただ我が身の不運の生れつきを泣け、というのである。「汝が性のつたなきを泣け」とは非情きわまりない言葉だが、これがぎりぎりに突きつめられた非情さであることはわかるだろう。現実倫理として自分に出来ることはしたうえで、その泣く声に深く胸を痛めたそのうえで、芭蕉はあえてこう書いたのだ。芭蕉の文学はこの非情さの上に立つ。文学は現実の悲惨に指一本触れられない。直接に触れようとする文学は、現実の勢力と結びついて、スローガン(標語)になったりプロパガンダ(宣伝)になったりアジテーション(扇動)になったりしがちだ。≫


「ただこれ天にして、汝(なんぢ)が性(さが)のつたなきを泣け」・・・。井口時男氏のエッセイで、はじめて知った芭蕉のこの言葉が、僕の心に突き刺さる。同情や良心の押し売りだけが文学ではない。僕は、今回の大震災や原発事故にさいして、文学者や思想家が書いた文章で、最もレベルの高いものだと断言する。僕にとっては他は全部クズである。自己欺瞞だらけの良心もヒューマニズムも、もうウンザリだ。しかるに、今回の大震災や原発事故は、僕にとって、くだらない文学者や思想家たちの思想的レベルを暴露してくれたという意味で、有意義であった。





★松島付近で・・・。


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