文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

綿矢りさと金原ひとみが「文学界」で対談している。これがなかなか面白い。最近の文芸誌の対談は、頭の悪い批評家と作家の御世辞とゴマスリと本の宣伝に決まっているが、この対談は、同年代のライバル同士の対談で、スリリングである。

綿矢りさ金原ひとみが「文学界」で対談している。二人とも、二十歳前後で芥川賞作家となったために、さわがれた。非難中傷も少なくなかった。あれから10年近くがすぎている。二人とも、もう20代も後半になったのではないか。消える作家が少なくない中で、スランプの時期もあったらしが、順調に成長してきたと思われる。すでに作品もかなりの数、出している。作家としては、二人とも軽く見られがちだが、僕はそうは思わない。もう立派な中堅作家である。今朝、出かける前、時計代わりにつけたテレビに綿矢りさが出ているも見た。対談でもそうだったが、彼女が意識して「京都弁」を使っているのに興味を持った。むろん、言葉は命だ。しかも、生まれ、育った京都に引っ越したらしい。綿矢りさの文学は京都でなければならない、ということか。大学で東京へ出て、そして大学卒業後もしばらく東京で生活したのだろう。綿矢りさが「京都弁」に執着しているところを見ると、東京弁や東京の生活で、文学的に行き詰ったのだろうと思われる。あまりにも抽象的な東京弁が足枷になったと思われる。それが、心機一転のきっかけだったのではないか。そして、京都への回帰、京都弁への執着だったのだろう。綿矢りさの小説も金原ひとみの小説も、大状況を語らない。今、世の中は、大きな声で大状況を語る人が多すぎる。男どもは言うまでもなく、女、子供までもが、天下国家や文明論を語りたがる。しかもほとんどがテレビや新聞、そしてネットの情報の受け売りだ。そんな中で、綿矢りさ金原ひとみが、身の回りの、小さな恋愛話や子育ての話、を真剣にしているのに好感を持った。彼女たちには「作品」がある。作品がすべてだ。作品が代わりに語ってくれるる。天下国家を語りたがるののは、作品が書けない作家だと言っていい。綿矢りさの新作『かわいそうだね?』を読むと、地震の話から始まってい要る。この小説は「週刊文春」2011・2・10号から連載されたものらしい。とすると、「3.11東日本大震災」前に書き始めていたということになる。地震の話は、連載終結後、書き加えられたものなのか。それとも、もともと地震の話から始まった小説だったのか。さて、高橋源一郎も、『恋する原発』刊行を機に、「群像」で佐々木敦のインタビューを受けている。対談かとおもったが、「インタビュー」となっている。佐々木は、冒頭から歯の浮くようなお世辞、社交辞令を連発している。最近、よくある宣伝用の対談、インタビューである。対談相手は、佐々木敦でなくとも、ベタ褒めしなければならない立場にある。気の毒である。しかし、これでは永久に駄目だろう。本が売れないと言われるが、こういうことを繰り返すからますます売れなくなるのである。悪循環である。高橋・佐々木対談(インタビュー)に比べると、綿矢りさ金原ひとみ対談は「すっきり」している。とってつけたような大げさなお世辞や社交辞令がない。(続く)


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