文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のエピローグを読む。

 昨日、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のエピローグの部分を読んだ。もう何回読んだかわからない。しかし、何回読んでも分からないことがある。有罪判決を受け、シベリア流刑の直前、獄中入院している長男・ドミートリーに、一目でも会いたいから来てくれと、元婚約者・カテリーナが呼ばれる場面である。ドミートリーは、「ああ、神よ、この心を鎮めたまえ。何を求めているかって?カーチャを求めているのさ!」・・・。兄の頼みをカテリーナに伝えるのが三男のアリョーシャ。無理矢理、引っ張り出されたカテリーナ。今は、憎しみと侮蔑の心しか持っいないはずなのに・・・。しかし、顔を見ると、「今はそれぞれ別の人を愛しているが、こんなこともあり得たかもしれない・・・」と思いつつ、病院で二人は、手を取り合う。「覚えているかしら、モスクワにいたころ、こんなふうに手を握りしめていたわね……それと、もういちどあなたに言いたかったの、あなたはわたしの神であり、わたしの喜びです、とね。気がくるうほどあなたのことが好きって、言いたかったの」・・・。これは、どういうことなのか。カテリーナもドミートリーも自分の本当の気持ちが分からなくなっているのではないか。カテリーナは、ドミートリーの弟・イワンを愛していると言いながら、またドミートリーもカテリーナが愛しているのはイワンだと思っているが、しかしカテリーナは最後の最後までドミートリーに執着しているように見える。もちろん、ドミートリーも・・・。「でも、やっぱり、あなたのことを永久に愛し続けるし、あなたもそうよ。そのこと、知ってました? ねえ、わたしを愛してね、死ぬまでずっと愛してね!」・・・・。使い込み事件に巻き込まれ、辞職寸前に追い込まれていた父親のために、資金援助してくれた卑劣漢・ドミートリーと、たしかに始まりは自尊心や意地で婚約し、そして裏切られ、無視されるうちに、いつのまにか執着するようになったのかもしれない。しかし、すでにカテリーナの心は、理想の恋人とも言うべきイワンの方に移っているではないか。それでも心の奥では、「愛している?」というのだろうか。それにしても、作者・ドストエフスキーは、何故、最後に、この憎み合っていたはずの二人を、わざわざ引き合わせ、手を取り合って、愛を確認する場面を描かなければならなかったのか。おそらく、ドミートリーの心の奥も、カテリーナの心の奥も、本人たちにさえ分からない。ここで、「自己とは他者である」「私の欲望は他者の欲望である」というジャック・ラカンの言葉が生きてくるように思われる。我々は、自分の心の奥さえ見通すことは出来ない。「私」は「私の主人」ではない。江藤淳は、「漱石像をめぐって」にこう書いている。≪漱石の秘密の奥行きをさぐろうとすれば、私はなによりもまず自分の内に澱んだもののなかに降りて行かなければならない。≫と。ドストエフスキーの作品世界の秘密もまた、テキストを正確に読むだけでは見えてこない。「自分の内に澱んだもののなかに降りて行かなければならない」のだ。「分からないということが分かる」という深部にまで降りて行かなければならない。そこで、僕は、柄谷行人が、芥川龍之介の『藪の中』の心理主義主知主義を批判しているのを思い出した。柄谷行人は、芥川龍之介を、≪この作品では、芥川は三者心理的現実を落ちつきはらって眺めている。だが、われわれが実際に三角関係にあり且つ「夫」の立場にあるとすれば、女に対する不信や軽蔑だけではすまないはずだ。女の心理をいかに洞察しても、そこに謎が残る。この謎をどんなに心理的に説明しても解けはしない。相手は、私の解釈をこえたところにある他者だからだ。(中略)しかし、芥川はそういう問いとは無縁である。彼にとって人間の心理は充分可知的なのである。厳密にいえば芥川には他者が存在しない。だから、『藪の中』には謎がない。≫≪しかし、芥川にはヴァレリーにあったような「知性」上の問題はほとんどなかった。彼が書いたのは、たかだか他人を気にする自意識であり心理にすぎない。≫と批判する。柄谷行人は、芥川龍之介は「人間を見下している」とも言っている。「人間の自己欺瞞が手に取るように見えるのである。」と。むろん、これは皮肉であり、根本的な批判である。話は変わるが、たとえば浅田彰宮台真司には、この問題が分かっていない。浅田彰宮台真司も、二流の芥川龍之介にすぎない。ドストエフスキーはそうではない。ドストエフスキーは、人間の心の奥底に残る解きがたい謎を追及している。柄谷行人は、マルクスについては、≪いいかえれば、マルクスはひとがどんな知識を持ちどんなに明晰であろうが、究極的に無知であるほかないような生存の構造を示したのである。≫と言っているが、おそらくドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で描こうとしたのも、この「どんな知識を持ちどんなに明晰であろうが、究極的に無知であるほかないような生存の構造」であろうと思われる。いいかえれば、カテリーナも、ドミートリーも自分が、本当は誰を愛しているか、誰を憎んでいるか、分かっていないのである。(続く)


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