文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「中央公論」の特集「文学なんて要らない!?」の内田樹「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」の「愚劣さ」について語ろうではないか。

中央公論」11月号が、突然、どういう思いつきかしれないが、「文学なんて要らない!?」という特集を組んでいるので、ちょっと立ち読みしてみたら、内田樹河野多恵子野崎歓等がそれぞれの立場から「文学の停滞」について書いているのだが、その中身があまりも馬鹿馬鹿しいというか、愚劣というか、おそらく論壇誌中央公論」で、こういういい加減な「文学特集」が組まれるところに、むしろ、文学の停滞というよりも現在の日本の論壇やジャーナリズムの貧困と衰弱が露呈していると思わないわけにはいかなかった。私は、かねがね、「政治や経済を語るには文学や哲学の知識や教養が欠かせない」と主張し続けているが、この程度の「文学理解」だからこそ、日本の論壇やジャーナリズムの言説が思想的に劣化していくのは当然だろうと思う。ちょうど先月号の本欄で、論壇誌と文芸誌の「差異」について論じたばかりだったので、ふたたびこの問題を取り上げることにする。
 さて、この特集で、主役級の扱いに気を許したのか、内田樹が、「文学音痴ぶり」を発揮して、「批評家が文学を殺した」などと大口をたたいている。
 ≪文学が売れないのは、けっして読者のリテラシーが劣化したからではない。作品のクオリティーが劣化しているからである。なぜそう言い切れるかと言えば、村上春樹という国内外で圧倒的なセールスを誇っている作家が現に存在しているからである。もし、あの作家の作品が「世界的に高い評価を得ているが、日本ではまったく売れていない」ということなら、日本人読者のリテラシーに問題があると推理することは間違っていない。だが、村上作品のセールス動向を見る限り、そういうことは起きていない。(中略)ということは、日本人のリテラシーだけが他国に比べてとくに劣化しているわけではないということになる。現代の日本の読者の文学に対する価値判断はかなり正確に機能している。≫
(「中央公論」11月号、内田樹「地球最後の日に読んでも面白いのが文学」)
 この、誰がどう読んでも粗雑すぎる論理によるお粗末なエッセイを読みながら、私は「笑い」と「侮蔑感」を抑えきれなかった。文学の停滞や不振を語る言葉が「売れる」「売れない」であり、その具体的証拠が国際的ベストセラー作家・村上春樹である。何故、現代日本文学の停滞や不振、地盤沈下を語るのに、その思想や文体、想像力・・・と言うような文学の思想性のレベルで語ろうとしないのか。「売れさえすれば文学は復活した・・・」ということになるのか。ちなみに、先月号で、私は、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」だけが優遇されている最近の文芸誌の悲惨な状況について書いたが、つまり文学不振の根本原因の一つが「文壇や文芸誌の世界にホンモノの批評家がいなくなった」「村上春樹を批判する批評家が排除された・・・」ことにあると書いたが、実は、内田樹も、「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」の一人であり、それが内田樹の「最終講義」なるものが文芸誌に掲載される根拠であった。たとえば、文藝評論家の井口時男も、今年3月、東工大教授を退官したが、「最終講義」なるものをしたのかどうか、それが文芸誌に掲載されたという話は聞かない。内田樹は、専門は「仏文専攻」「フランス現代思想」「武道論」「映画論」だそうだが、現代日本文学にも、文藝批評にも「盲目」らしい。文壇業界の最後のドル箱としての村上春樹をベタ褒めしてくれさえすれば、内田樹がいかに「文学音痴」であろうとも、優遇、歓迎してくれるというのが、現在の日本の文芸誌というわけだろう。ちなみにこの「中央公論」の特集に登場している野崎歓も「村上春樹をベタ褒めする批評精神を喪失した批評家たち」である。
 さて、問題が何処にあるかは明らかである。内田樹が言うような、「批評家が文学を殺した」のではない。「批評家の追放・排除が文学を殺した」のである。内田樹は、「時代小説」が売れているから、時代小説を評価しつつ、こう言っている。
 ≪さきほど「例外的に売れているものもある」と書いたけれど、例外的に売れているものの一つは「時代小説」である。(中略)時代小説がとりわけ選考される理由がわかる気がする。(中略)そして時代小説(に限らず中間小説や大衆小説)が純文学をしりめに隆盛を極めている理由は、そこには批評家がいないからである。純文学をここまで委縮させてしまった最大の理由は批評にあると私は思う。≫
 内田樹の「批評家犯人説」がまったく無意味だとは思わないが、それにしてもお粗末な論理であると言うほかはない。時代小説や中間小説、大衆文学の隆盛と純文学の不振を対比的に論じるのはいいが、その基準が、「売れる」とか「売れない」というのだから話にならない。昔から大衆文学や中間小説は「売れる」ことを第一の目標にしているのであり、純文学は「売れる」ことを最大の目標にしないからこそ、つまり「売れ行き」という資本主義的商品交換の論理とは別の、もう一つの文学的な価値基準を持っていたからこそ、存在意義を有していたはずである。そもそも「純文学も売れなければならない」と言い始めたのは、純文学が出版資本の奴隷になったころからであろう。つまり、菊池寛が「芥川賞直木賞」というシステムを出版資本を背景に作り出したあたりがその起源であろう。元来、純文学は非営利的な同人雑誌によって成り立っていたのである。とすれば、純文学の復活は「売れる」ことではなく、資本主義的な出版資本からの「奴隷解放」から始まると言わなければなるまい。
 ところで、河野多恵子ぐらいは、もっと文学的な問題を指摘しているかと思ったら、彼女も、こんなことを言っている。
 ≪ところで、小説とは純文学であれ大衆文学であれ、楽しむものだとしか、私には思えない。ところが、そのどちらの場合でも、とかく〈いかに生きるべきか〉が求められているようである。日本で〈いかに生きるべきか〉が小説のテーマの中心になった始まりは、もちろん自然主義私小説である。数も少なくて互いの私生活にも通じ合っている当時の狭い文壇のなかでの作家としての生き方をテーマにすることで、〈いかに生きるべきか〉が始まったのだった。(中略)そういうわけで、今日でも純文学であれ大衆文学であれ、〈生き方の指針〉的な要素を思わせる性質のものが、実は多い。推理小説にしてさえ、そうなのである。≫(河野多恵子「小説は楽しむもの/生き方の指針ではない」)
 「小説は楽しむもの/生き方の指針ではない」という言葉の厳密な解釈がはたしてどういうものか、私も即断は避けるが、しかし、単純に考えて、私は、河野多恵子のこの「小説論」「文学論」に反対である。おそらく、河野は、谷崎潤一郎三島由紀夫等の小説を念頭に入れていると思われるが、私は、谷崎や三島の小説にも「生き方の指針」のようなものを感得する。そこには、人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれている。谷崎や三島の小説でさえ、「小説は楽しむもの」という小説論では語りつくせないと私は考える。
 むしろ現在の小説や文学の停滞は、「生き方の指針」となるような人間存在の「深い真実」、言い換えれば「存在の深淵」とでも呼ぶべきものが描かれなくなったところにあるのではないのか。先月の六万人の「脱原発デモ」で、作家の大江健三郎と批評家の柄谷行人が先頭に立っていたらしいが、私は「脱原発デモ」には賛成ではないが、作家や批評家が政治運動や市民運動、あるいは革命運動などの先頭に立つということの意義は否定しない。たとえば、私はつい最近、某雑誌の企画で、「共産主義者同盟赤軍派議長」だった塩見孝也と対談したが、彼は、私が小林秀雄三島由紀夫江藤淳に影響を受けていると話したところ、「私も彼らと感性は似ている。江藤淳の『夏目漱石』論は熱心に読みました」ということだった。文学が停滞し、地盤沈下しているとすれば、河野多恵子の小説論とは逆に、むしろ「小説は楽しむもの」「生き方の指針ではない」という主張が文壇内外に蔓延するようになったところに原因があるのではないか。
(続く)



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