文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

「カダフィ大佐虐殺」と「民主化イデオロギー」。「カダフィ大佐虐殺」は「民主化イデオロギー」によって正当化されるのか。そもそも「民主化イデオロギー」とは何か。

リビアの指導者で、「中東の狂犬」と言われていたカダフィ大佐が虐殺されたらしいが、その虐殺の正当化の論理として欧米マスコミを中心に持ち出されているのが「民主化イデオロギー」である。つまり「民主主義」「民主化」「民主制」という政治的な思想概念が、現在、日本を含めて世界中に自明の真理のごとく流通しているというわけであるが、ここで、少し立ち止まって考えてみたい。「民主主義」「民主化」「民主制」として持ち出されるのは「独裁」「独裁者」であるが、この「民主化か独裁か」という単純な二元論が、現代世界を思想的に支配しているが、この単純な二元論そのものの起源と歴史について考えてみたい。ところで、僕は「カダフィ大佐虐殺」ということで、一方的な「カダフィ狂犬説」「カダフィ独裁者説」がやや薄まりつつあるが、つまりカダフィに同情する人も少なくないようだが、今頃になって、カダフィに同情してみても遅いと言わなければならない。要するに僕は、カダフィを銃殺したのは誰か、カダフィ以後のリビアがどうなるか、カダフィは本当はどういう指導者だったのか、というような問題にまったく興味がない。カダフィを中東の狂犬とか独裁者と言って批判する者も、いやカダフィは当初は立派な革命家だったと擁護するものも、ともに依拠する「民主主義」というものについて考えてみたいいうわけだ。というわけで、「カダフィ大佐虐殺」を材料に、ギリシャに起源を持つと言われる「デモス」、あるいは「デモクラチア」について考えてみよう。古代ギリシャにおいては「デモクラティア」は、驚くべきことだが、必ずしも現在のように肯定的な政治システムのことではなかった。ギリシャ人が最も嫌悪し、畏れていた政治体制とは、「僭主」という名の独裁制だったらしい。そして「僭主」「独裁者」を排除するシステムを模索したのがギリシャ人であり、ギリシャの哲学者、思想家たちであったというわけである。(続く)


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