文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

江藤淳と吉本隆明は、何故、意気投合したのか?

右翼保守派の江藤淳と、左翼の吉本隆明は、何回か対談している。大方は、激しい論争になるのかと期待していた。しかし、そうはならなかった。二人は、政治的思想的差異を認めつつも、すっかり意気投合した。それは、 日本近代思想史における特筆すべき大事件だった。二人の間で何があり、何がなかったのか。実は、二人が対談する前から、僕は、二人の熱心な読者だった。むろん、何故、二人の著作を、同時に、熱心に読み続けることが出来るのか、自分でもまだよく分かっていなかった。しかし、明確に理解出来なかったとはいえ、二人が共有する何かに、僕だけではなく、当時の若者たちの少なからぬ部分が敏感に反応していたはずだ。そこに何かが有ることは確かだった。そこに、江藤淳吉本隆明を同時に高く評価する柄谷行人が「漱石論」でデビューする。柄谷行人は、「倫理的次元」と「存在論的次元」を区別しつゝ、漱石が、倫理的次元から出発しながら、存在論的次元にも深くかかわった作家だったことを明らかにする。江藤淳吉本隆明が、政治的・思想的差異を認めつつも、深く共感出来たのは、これだったのだ。つまりp、存在論的次元を共有していたのだ。したがって、僕は今でも、江藤淳吉本隆明柄谷行人を、同時に、高く評価しつつ読むことが出来る。今、こういう存在論的次元にまで、思考や分析の鉾先を向けることの出来る思想家や文学者は少ない。今回の東日本大震災やフクシマ原発事故が明らかにしたものは、いろいろあるだろうが、やはり僕の目には、この問題だったように見える。政治家もジャーナリストも、そして科学者も文学者も、あるいは一般国民も芸能人もスポーツ選手も、倫理的次元でしか物を考えられなくなっている。つまり、みんな「いい子になりたい症候群」の虜になっっている。人間の本質について問う、いわゆる「存在論的次元」で物を考える人間がいない。吉本隆明が登場しなければならなくなる所以であろう。(続く)


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