文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

児玉龍彦。東大医学部卒、東大先端技研教授について話そう。

武田邦彦小出裕章広瀬隆・・・等、反原発脱原発文化人の中に、もう一人、「反原発スター」(笑)が誕生しました。児玉龍彦。東大医学部卒、東大先端技研教授。そこで、僕も彼の証言やインタビュー、新聞記事などを読んでみた。彼の言っていることは、誰が見ても「正論」である。おそらく、彼の発言は間違っているわけではない、というより、お得意の「後出しジャンケン」なのだから、あまりにも正しすぎると言っていい。しかし、 それにしても、彼は、何故、突然、泣き出すのか。あるいは、何故、インタビューの間、へらへら笑い続けるのか。顔つきにしても、とても僕には、一流の科学者の顔には見えない。感情の起伏の激しい、世間知らずの科学者(医者)にしか見えない。御用科学者たちが信用できないように、この、結果論でしか物の言えない科学者(医者)も信用できない。というより、半分しか信用できないように見える。ということは、御用科学者たちの発言も半分は真理だということではないのか。善と悪。正義と悪魔。・・・というような尺度で物を考えることの危険性を表しているのではないか。何故、人間と言う存在は、いとも簡単に「付和雷同」するのか。戦時中は軍部の宣伝やそれに追従するマスコミの言葉に「騙された」と主張する人たちが、何故、再び、三度、同じことを繰り返すのか。しかも自覚もなしに・・・。戦時中は「鬼畜米英」、戦後は「反戦平和」、そして今は、「脱原発」「反原発」…。その時代によって言葉は異なる。しかし、簡単に言葉に「騙され」、言葉に「酔っている」ことに変わりはない。「鬼畜米英」も「反戦平和」も「脱原発」も、半分は真理である。しかし、絶対的真理からはほど遠いはずだ。ところが、何故、それらの「真理」の絶対性を疑おうとしないのか。しかも、それらの「真理」の絶対性を疑おうとする人たちを袋叩きにしようとするのか。小林秀雄は、「プラトンと『国家』」というエッセイで、「そこで彼は方向転換し、凡そ物を考える出発点も終点も『汝自身を知る』事にあると悟った。プラトンは、青年時代に、そういう人物に出会い、生涯離れることが出来なかった。従って、プラトンは、人間の奇怪さ、愚かさ、惨めさから、一瞬も眼をそらして、物を考えたことはない。エルの語るところは、人間の真景であり、プラトンが、物を考える時に立っていた最も鞏固な基盤である。今日になっても、石ころ一つ崩れてはいまい。」(『考えるヒント』)と言っている。耳の痛い話ではないか。(続く)



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