文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小生の政治論文「存在論的政治家論」(「選挙を恐れる輩に政治家の資格なし」)が、「月刊日本」七月号に、巻頭論文として掲載されています。是非、御一読を。


今、宇都宮行き新幹線。今日も、一日中、ドストエフスキーを読む。ところで、昨日発売の「月刊日本」七月号に、巻頭論文として小生の「存在論的政治家論」(「選挙を恐れる輩に政治家の資格なし」)が掲載されています。是非、「月刊日本」の御一読を。今、読むに値する論壇雑誌は「月刊日本」だけだ。僕は、「存在論的政治家論」で、ドストエフスキーハイデガー小林秀雄本居宣長藤原定家などを取り上げたり、引用したりしている。ドストエフスキーからは「カラマーゾフの兄弟」のなかの、「大審問官」の直前に出てくる話で、「リシャール」という凶悪犯が、「善意の大合唱」に包まれて、処刑される話を取り上げている。悪の限りを尽くしてきた犯罪者・リシャールは、獄中で、神父や善良な支援者たちの教えや説得のお陰で、信仰に目覚め、過去の犯罪を悔い改めたために、一躍、世の善人どものヒーローとなる。そして善人どもが、 「他人の不幸」をダシに、「善意の押し売りゴッコ」に歓喜するなかで、つまり「神に召される」という宗教美談の粧いを凝らした形でギロチン台で、処刑される。この話は、美談の粧いを凝らしてはいるが、何かがおかしい。明らかにイワンは、つまりドストエフスキーは、この話の中に、世の善人どもの「自己欺瞞劇場」を見出し、それを曝露している。東北大震災に対する国民総動員の「善意の押し売りゴッコ」の構造とよく似ている。野次馬や傍観者どもは「頑張ろう、日本」の合唱で自己満足している。この善意の大合唱に隠蔽されている自己欺瞞の構造を暴き出すことこそ、思想家や文学者の勤めではないのか?(続く)



(続きは、『思想家・山崎行太郎のすべて』が分かる!!!有料メールマガジン『週刊・山崎行太郎』(月500円)でお読みください。登録はコチラから、http://www.mag2.com/m/0001151310.html

人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ