文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

林芙美子とハイデガー

昨日は、再び、林芙美子の足跡をたずねて、伊香保竹久夢二記念館でもよおされている林芙美子展示会の見学から、長野県の角間温泉林芙美子記念館へ。夢二記念館では清水さんが、地元のご婦人方を前に浮雲論を披露。それから新幹線で、高崎から長野へ。そしてバスとタクシーを乗り継いで角間温泉林芙美子記念館へ。角間の林芙美子記念館は、初版本や書簡類など、資料の内容が充実している。志賀高原にあるホテル経営者(ホテル一之瀬)が財力にものを言わせて買い集めたものらしい。清水正教授の話だと、林芙美子記念館はいくつかあるが、ここが一番、質も量も充実しているらしい。さて、われわれが、何故、角間温泉というところにこだわるのかというと、それは、林芙美子が、戦時中、ここに疎開していて、この地で多くの作品を書いているからである。しかも、終戦玉音放送を、つまり昭和20年8月15日、この地で聞いている。戦前、戦時中、ペン部隊の一員として南京など各地を訪れ、戦意高揚のための文章をたくさん書き、ベストセラー作家として、日本国民に多大な影響を与えた従軍作家だった林芙美子にとっては、複雑な心境で玉音放送を聞いたにちがいないのである。さて、夜は角間温泉の「ようだや」に泊まったのだが、この「ようだや」の二階の一室こそが林芙美子が執筆した部屋だった。「ようだや」という温泉旅館は、今でも昔の温泉宿の面影を残す旅館で、僕は、なんとなく映画で見た「伊豆の踊子」の温泉宿の風景と雰囲気を感じ、とても懐かしかった。三味線の音や踊り子の姿がないだけだ。「ようだや」の目の前に共同浴場(大湯)があり、昔の温泉街の佇まいをそのまま残ている。ところで、林芙美子ほど「ふるさと」や「存在」、あるいは、「故郷喪失」という問題にこだわった作家はいない。林芙美子の出生の秘密が,鹿児島県の桜島、「古里」温泉にあることが象徴しているように、「古里(ふるさと」こそ林芙美子文学を解く鍵のように思われる。たとえば、よく知られているように、林芙美子は、デビュー作「放浪記」の冒頭で、自分の作家的宿命を宣言するかのように、こう書いた。

 私は宿命的な放浪者である。私は古里を持たない…したがって旅が古里であった。

僕は、この文章は、林芙美子自身の体験の赤裸々な告白であることによって当時の大衆の心を掴むと同時に、大衆の存在本質をも代弁していたのだと考える。まさに 、当時は故郷喪失の時代だったからだ。林芙美子ハイデガーを読んでいたかどうかは分からないが、ハイデガーと問題を共有していたこと明らかだろう。つまり林芙美子は、ハイデガーと同様に、「故郷喪失」「存在喪失」を強く自覚していたが故に、「故郷の再構築」と「存在の再構築」を執拗に追及した作家だったということが出来る。僕は、林芙美子ゆかりの地を訪れる度に、林芙美子が各地で、いかに激しく「故郷の再構築」と「存在の再構築」を試みたかを知った。尾道、門司、下関、鹿児島、桜島屋久島、あるいは伊香保温泉、角間温泉上林温泉・・・。いずれの土地でも林芙美子への思い入れは、想像を絶するほどに深い。それぞれの場所で林芙美子関係の資料や林芙美子との触れ合いの記憶や思い出が、大事に保管され、語り継がれ、あるいは展示されている。文学とそれほど深く関わっているとも思えない老人たちが、情熱的に林芙美子について語るのを聞いていると、林芙美子という作家の存在の根の深さを感じないわけにはいかない。ハイデガーが「ヒューマニズムについて」で、世界史的運命としての「故郷喪失」を語ったのは戦後だが、林芙美子が「放浪記」を発表したのが昭和四、五年だったわけだから、ハイデガーよりも10数年も早くに、故郷喪失というテーマを語り始めているということになる。無論、ハイデガーのいう故郷喪失というのは存在喪失のことであり、それは、「存在と時間」以来、ハイデガーが一貫して追及してきたもんだいである。
(続く)






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