文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

小沢一郎待望論の複数性と多様性を取り戻せ。

私が作家や批評家を、あるいは思想家を評価したり、この人は才能があるな、と判断する時の基準は、その人が本質的な問題を抱え持っているかどうか、だ。たとえば、原発事故問題は確かに大問題だが、それ以上に本質的な問題を抱え込んでいる作家や批評家はいないのかということである。今、誰も彼も、「原発原発・・・」と騒いでいるが、もし、今、原発事故が起きていなければ・・・と考えると愕然とする。西に大震災があれば大震災を追いかけ、東に原発事故が起きれば原発を追いかけ・・・というのは、作家やジャーナリストの宿命として仕方が無いが、しかし、一人か二人ぐらいはいてもいいだろう。大震災も原発事故も関係ないよ。俺は俺のやりたいことをやるだけだ・・・というような作家や思想家がいても。吉本隆明は、敗戦直後、巷に溢れた時局便乗的な藪医者たちの発言に対して、数少ない本質的な思想家であった小林秀雄の声を聞きたかあったが、小林秀雄は沈黙を守り、何も発言しなかったと書いていたが、今もまた同じことが言えるように見える。いま、巷に溢れているのは、時局便乗的な藪医者たちの発言ばかりである。。今こそ、そういう時局便乗的な、野次馬的な声ではなく、小林秀雄のような本質的な作家や思想家の声を聞きたい。かつて,大東亞戦争の最中、谷崎潤一郎は「細雪」を延々と発表する当てもなく書きつずけていたし、小林秀雄は、日本の古典論を書き続けていた。また、三島由紀夫事件後、磯田光一という文藝評論家が、名著「殉教の美学ー三島由紀夫論」を絶版にし、三島事件について沈黙を守ったことがあった。磯田光一は、今、忘れられているかにみえるが、磯田光一こそ本質的な思想家だった。吉本隆明が、激しい政治の季節に、一見、政治と無縁な、「言語にとって美とはなにか」という言語論を書き続けていた例もある。無論、戦争や政治、あるいは原発事故について書いていけないというわけではない。たとえば広瀬隆のような「原発問題」を生涯のテーマとしているような人間が、原発事故に直面して、あらためて原発問題を論じ続けることは重要だ。僕も広瀬の話なら、何度でも聞きたいと思う。しかし、最近の「原発論議」の多くは、本質的な論議ではなく、条件反射的な、付和雷同的な、新聞やテレビの受け売りと一夜ずけの知識にもとずく素人談議にすぎない。勿論、その種の議論も自由である。だが、そこには、何かが欠如している。さて、小沢一郎待望論は、大震災、原発事故以後でも根強いものがある。しかし、原発事故以前と以後とでは、小沢一郎待望論の中身は大きく変質しつつあるように見える。たとえば、最近の小沢一郎待望論は、「反原発」「原発即時廃止論」あるいは「反核運動」に収斂しつつあるように見える。つまり、小沢一郎待望論の運動というより「反原発」「反核」運動に変質しつつあるように見える。これは、小沢一郎待望論が「複数性」と「多様性」を失いつつあるということを意味する。言うまでもなく、小沢一郎の魅力は、右も左も、都市部も農村部も、年寄りも若者も、「清濁併せ呑む」、いわゆる懐の深いところにある。僕自身、かなり昔から、小沢一郎の政治家としての才能と資質に期待し続けてきたが、未だに小沢一郎の政治思想の中身については、漠然としか知らない。小沢一郎が「反核」「反原発」なのか、「原発推進派」「原発利権派」なのか知らない。僕はそれでもいいと思っている。僕が期待しているのは小沢一郎の政治的才能であり、政治的パーソナリティである。僕が反対なのは、ある特定のイデオロギーに凝り固まり、現実の「複数性」や「多様性」を直視する姿勢を放棄することである。僕が、目先の現実に翻弄されて付和雷同し、現実を直視しているつもりが、実は観念に酔っているだけの議論、つまり一夜漬けの知識や受け売りに基づく議論を嫌悪するのは、そこに理由がある。むしろ、誰でもが安易に飛びつく、「分かりやすい現実」「分かりやすい議論」こそ疑うべきなのである。ヘーゲルは「現実は媒介されている」言っているが、現実を直視するためには、回り道が必要なのである。換言すれば、「政治は中庸を行かねばならない」(三島由紀夫「我が友ヒットラー」)のである。(続く)
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