文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

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「保守論壇改造論(4)」・・・保守思想の元祖・小林秀雄にとってマルクス主義とは何だったのか?

保守論壇を作ったのはマルクス主義である。むろん、反面教師としてのマルクス主義であるが、しかしマルクス主義保守論壇を形成する上で重要な役割を果たしたことは否定できない歴史的現実である。つまり、昭和初頭、勃興する新思想としてのマルクス主義という原理的な、そして実践的な思想体系との「思想的対決」の過程で、保守論壇も保守思想も、原理的、実践的な思想運動として形成されていった。この事実は重要だ。丸山真男は、『日本の思想』の中で、こう言っている。

マルクス主義が近代日本の精神史一般のなかでどういう画期的な意味をもったかということは、「Ⅰ 日本の思想」のなかでのべたので、ここで再説を避ける。それがわが国の文学的伝統にとっては何を意味したかは、ほかならぬマルクス主義文学批評にとつてもっとも手剛い敵手であった(あるいは、今でもある)小林秀雄に語らせるに若くはない。「私達は今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。かういふ状態にあつた時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言ふまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。……これを受け取つた文壇にとつては、まさしく唐突な事件であつた。てんで用意といふものがなかつたのだ。当然その反響は、その実質より大きかつた。そしてこの誇張された反響によつて、この方法を導入した人達も、これを受け取つた人達も等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中にはなかつたといふ事を忘れて了つた。これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特の事情である。……(中略)……」(「批評について」昭和八年)。
まことに鮮やかな指摘だ。日本では「自由主義者」の自己意識はマルクス主義によってはじめてつくられたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な事柄である。(中略)けれども、マルクス主義の方法に類似した方法さえこれまでの伝統のなかになかった、と小林がいっている事情は、すくなくも他の領域よりは文学にとくに強烈に見られる問題であり、それだけ文学の場合は内面的なゆすぶられ方が大きかったといえるだろう。(丸山眞男『日本の思想』)

 ここで、小林秀雄丸山眞男が言っていることは、保守論壇や保守思想を語る上で、見逃すことのできない事実である。「突然極端に科学的な批評方法が導入された。言ふまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである」「これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特の事情である」と小林秀雄も言っているわけだし、またその小林の発言を受けて丸山が、「まことに鮮やかな指摘だ。日本では「自由主義者」の自己意識はマルクス主義によってはじめてつくられたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な事柄である」と言っていることからも明らかなように、日本の近代思想史にとってマルクス主義の影響は左翼論壇だけでなく保守論壇においても及んでいた。小林秀雄は「近代批評の創始者」とも言われているわけだが、それは、小林秀雄マルクス主義という原理的、且つ実践的な思想との対決を強いられたということであり、その対決の過程で、小林秀雄もまた原理的、且つ実践的な思索を、つまり僕の言葉で言えば「存在論的思考」を強いられたということである。小林秀雄が、左翼論壇や左翼思想、つまりマルクス主義と対決し、マルクス主義者たちを徹底的に批判し、次々と論破したことから、小林秀雄の思考は「非論理的」で「非合理的」だというようなことが、マルクス主義者でプロレタリア文学の中心的な存在だった中野重治等によって言われたが、それは間違っている。小林秀雄は、論理や合理性を拒絶し、感性や文体だけに固執した人ではない。小林秀雄マルクス主義を理論的に論破出来たとすれば、それは小林秀雄の思考が、論理的で、合理的だったからである。ただ小林秀雄は、マルクス主義者の考えるレベルでの「論理性」や「合理性」の枠には収まりきらず、その枠を超えていたということである。この歴史的事実を忘れて、スターリン批判や冷戦終結、あるいはソ連解体とアメリカ型民主主義の「全面勝利」を受けて、「マルクス主義なんて古い」「マルクス主義は終わった」と考え、マルクス主義が提起した根源的な問題を、それに賛成するにせよ反対するにせよ、考え得なくなったところに、保守論壇地盤沈下と思想的退廃は始まったと言っていい。実は、「マルクス主義は終わった」と考えたのは保守論壇だけではなく、左翼論壇も同様である。言い換えれば、地盤沈下と思想的退廃は、保守論壇だけではなく左翼論壇にも、起こったのである。繰り返しになるが、マルクス主義の終焉を受けて、左翼思想家たちの多くはポスト・モダン的な「知的ゲーム」の世界へと逃避し、そこに生存の活路を見出していったというわけだ。そしてその時点で、実践活動を伴っていた思想運動の共同体としての左翼論壇は消滅したというべきだ。つまりその時点で、左翼思想は観念的な、薄っぺらな「学問」となり、その結果、左翼論壇は大衆を動員する力を失ったのである。ところで、僕が、今、保守論壇を再建する力を秘めた思想家として注目するのは柄谷行人佐藤優であるが、この二人の思想家は、ともに「マルクス」及び「マルクス主義」というものを、その思想的思索の原点に据えている。特に、柄谷行人は、左翼論壇の多くが、マルクス主義を語らなくなった時代に逆行するように「マルクス(主義)への転向」を宣言し、『マルクスその可能性の中心』以後、近著『世界史の構造』にいたるまで、一貫してマルクスというテクストと格闘してきた。しかし、柄谷行人が読み続けているマルクスとは、いわゆるマルクス主義研究者たちが相手にしていた「イデオロギーとしてのマルクス主義」、つまり「理論としてのマルクス主義」というよりも、「テクストとしてのマルクス」ないしは「存在論としてのマルクス」である。つまりマルクスの読み方には、大きく分けて二つの読み方があると言うことが出来る。内在的論理として読むか、外在的論理として読むかの二通りである。マルクス主義を肯定するか否定するかは別にして、小林秀雄柄谷行人マルクスの読み方が、内在的な読み方であることは間違いない。彼らにとっては、マルクスの思考過程が第一義的な問題なのであって、マルクスが悪戦苦闘しつつ理論体系にまとめ上げた、いわゆるマルクス主義と呼ばれることになる理論体系が主たる問題なのではない。「マルクス主義は破綻した」「マルクスは終わった」「マルクスはもう古い」というような言説を繰り返す人たちは、あくまでも理論体系が問題なのであって、外在的にマルクスを読んでいることは言うまでもない。さて、柄谷行人は、小林秀雄の、「脳細胞から意識を引き出す唯物論も、精神から存在を引き出す観念論も等しく否定したマルクス唯物史観に於ける「物」とは、飄々たる精神ではない事は勿論だが、又固定した物質でもない。」(「様々なる意匠」) というような、いわゆる小林秀雄マルクスの読み方を踏まえたうえで、こう言っている。

 明らかに、小林秀雄は、マルクスの言う商品が、物でも観念でもなく、いわば言葉であること、しかもそれらの「魔力」をとってしまえば,物や観念すなわち「影」しかみあたらないことを語っている。この省察は、今日においても光っている。それは、『資本論』を言語学的に読もうとする構造主義の試みとは似て非なるものだ。言語学者には言葉に対する驚きがなく、経済学者には商品に対する驚きがない。それらの「魔力」の前に立ち止まったことのない者が、何を語りえよう。したがって、「価値形態論」に関する私の考察は、哲学・言語学・経済学といった区分にはとどまりえないのである。(柄谷行人マルクスその可能性の中心』)

ここに、小林秀雄柄谷行人の「マルクスの読み方」の特徴がよく出ている。要するに、小林と柄谷は、マルクスを「内在的」に読んでいるのである。言い換えれば、柄谷はマルクスの読み方を小林秀雄に学んでいると言っていい。それは、彼の『マルクス その可能性の中心』というタイトルのつけ方にも表れている。マルクスを「可能性の中心」において読むということは、マルクスを理論体系やイデオロギーとしてではなく、「内在的」に読むということだ。

(続く)



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