文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

再び、脳科学者・茂木健一郎について。

 脳科学者・茂木健一郎は、「週刊ポスト」の連載コラム(第71回)で、「『激動の2010年』を振り返る」と題してこう書いている。

2010年を振り返ると、「激動」の年だったように感じる。必ずしも、大きな事件があったという意味ではない。これまでの私たちの認識を変えるような、さまざまな変化があったという意味においてである。脳は、世界について考える時に、いくつかの暗黙の前提を持っている。今年は、これまで数十年の間、当たり前だと思っていたことがそうは見えなくなってきたという、重大な変化の潮目に当たったような気がする。革命は、外で起こったのではない。私たちの心の内面で起こり始めているのだ。/たとえば、「国家」というもののあり方の様々な側面。私が子どもの頃は、検察というものは無条件に「正義」であり、悪を暴くものだと信じていた。(中略)ところが、今年起こった一連の出来事を通して、検察に対する信頼は地に堕ちた。(中略)検察に対する不信の目と同じような視線は、同時に、これまで警察や検察の発表をある意味では「そのまま垂れ流し」してきた、新聞やテレビといった伝統的なメディアに対しても向けられた。(中略)国家の正義を実現するはずの「検察」という組織、公益のために、報道を行なうはずのメディア。これらの、いわば「社会の秩序」を担う実態に対する信頼感が低下したことが。2010 年の最大の出来事の一つだった。
(「週刊ポスト」2011.1.14/21迎春合併特大号)

 僕は、繰り返しになるけれども、脳科学者・茂木健一郎を思想的に高く評価しているわけではないが、しかし茂木健一郎がここに書いていることは、思想情勢論としてはかなり正確だろうと思う。昨年は、「検察不信」と「検察批判」、そして「マスコミ不信」と「マスコミ批判」が、ごく平均的な一般大衆の中にまで知られわたるようになった年である。その知的流れを先導したのが、文化人や新聞・テレビなどの伝統的メディアではなく、実はブログやツイッターというような新興メディアであったことは重要である。山崎正和は、読売新聞のインタビューで、「ブログやツイッターの普及により、知的訓練を受けていない人が発信する楽しみを覚えた。」などと、伝統的な文化人の一人としての見地から、つまり自分は大衆ではなく、あくまでも大衆を啓蒙する文化人だという的立場から、「新聞」を擁護しつつ、能天気なブログ批判やツイッター批判を展開しているわけだが、それに対して茂木健一郎はこう書いている。

以上のような危機感、認識の変容は、ツイッターやブログを中心とするインターネットの上では、多くの人たちに共有されていた。その一方で、新聞やテレビといった「古いメディア」や、東京大学をはじめとする「一流大学」は、問題があることは認識しつつも、本気で改革をしようとはしていないように見える。(中略)「ツイッター改革派」とでも言うべき流れが生まれている。その層が民主党の代表選の際に、小沢一郎氏の支持に回った。(中略)インターネットがもたらした情報の自由化や、グローバル化の波は、もはや止めようもない。

「インターネットがもたらした情報の自由化や、グローバル化の波は、もはや止めようもない。」というような、いささか楽天的な、情勢論的なものの言い方が気にならないわけではないが、茂木健一郎がここに書いていることに間違いはない。つまり、最近の政治的事件として話題を集めている小沢事件なるものの本質は、ブログやツイッター等のメディア革命の問題と連動している。新聞やテレビしか見ない人たちは、新聞やテレビの情報操作に無関心で、新聞やテレビが画策する小沢批判に簡単に洗脳されているが、ブログやツイッターから情報を得ている人たちは、新聞やテレビが伝える小沢批判がデタラメであることを知り、むしろ、マスコミ批判派になり、小沢擁護論を展開し、小沢支援デモにも積極的に参加している。要するに、ネットやブログ、そしてツイッターを通じて情報や知識を得ている人たちの多くは、茂木健一郎と同じように考えていると言っていいのではないだけろうか。あるいは、政治家・小沢一郎を批判するネット右翼と言われる人たちも、ブログやツイッターに精通しているが故に、小沢一郎を批判しながらも、朝日新聞に代表されるマスコミやテレビ・ジャーナリズムへの批判という点では、その方向はともかくとして、小沢擁護派の人たちと一致するのではないだろうか。アメリカでは、チュニジア革命を、さっそく「ツイッター革命」と呼んでいるいるらしいが、日本に関する限り、「小沢革命」こそ「ツイッター革命」と呼ぶべきだろう。




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