文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

あの西村賢太が芥川賞を受賞する時代が、やっとやってきたということだろう。

西村賢太という作家がいる。中卒で、コンプレックスの塊のような、貧しく、自虐的な青年を主人公にした「私小説」を書き続けている作家である。現代では、きわめて珍しい作家であるが、実は、西村賢太の小説のファンというか愛読者、ないしは支持者は少なくない。僕も、デビュー当時から、つまり2004年、『煉瓦』第30号(同年7月)に発表した「けがれなき酒のへど」が『文學界』12月号に転載され、同誌の「下半期同人雑誌優秀作」に選出された時から、「これぞ小説だ」と思ってきた。しかし、芥川賞を受賞するまで書き続けるとは思っていなかった。西村賢太が敬愛し、惚れ込んで、自分の力でその全集まで出したいという、大正時代の不遇な貧乏作家・藤澤清造のように、不遇な貧乏作家で終わるのかもしれないと思っていた。その西村賢太が、昨日の芥川賞選考会で、見事に芥川賞を受賞することになったという。そういう時代になったのだと言わざるを得ない。これから、芥川賞受賞を機に、多くの人が絶賛し始めるだろうから、僕はあまり西村賢太論を語りたくないが、ふと、僕は、そう言えば、西村賢太的リアリズムは、田中角栄的リアリズムに、そして小沢一郎的リアリズムに通じているなあ、と思った。誰も行かないような田舎の山奥の寒村で、ミカン箱の上に立ち、選挙演説を開始する、という小沢一郎の「川上作戦」は、田中角栄的な政治的リアリズムを象徴しているが、このリアリズムは、西村賢太的リアリズムに似ていなくもない、と思うからだ。日本国民の集合的無意識の奥深くまで分け入っていく民衆的リアリズムは、西村賢太田中角栄小沢一郎に共通している、と思う。さて、西村賢太と言っても、一般的には馴染みがないかもしれないが、すでに多くの作品集を出し、頻繁に文芸雑誌にも登場し、その作品集が文庫本にもなっているぐらいの作家だから、まっさらの新人というわけではない。作品の中身とは異なり、作家としては順風満々で、きわめて恵まれた作家だと言っていいかもしれない。西村賢太の作品歴は次のとおりだ。


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2004年、『煉瓦』第30号(同年7月)に発表した「けがれなき酒のへど」が『文學界』12月号に転載され、同誌の下半期同人雑誌優秀作に選出される。
2006年、「どうで死ぬ身の一踊り」で第134回芥川龍之介賞候補、「一夜」で第32回川端康成文学賞候補、『どうで死ぬ身の一踊り』で第19回三島由紀夫賞候補となる。
2007年、『暗渠の宿』で第29回野間文芸新人賞受賞。
2008年、「小銭をかぞえる」で第138回芥川賞候補。
2011年、「苦役列車」で第144回芥川賞受賞。



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芥川賞受賞作「苦役列車」冒頭引用。


苦役列車西村賢太

    一

 曩時北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。
 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上に再び身を倒して腹這いとなる。
 そしてたて続けにハイライトをふかしつつ、さて今日は仕事にゆこうかゆくまいか、その朝もまたひとしきり、自らの胸と相談をするのであった。
 その貫多は十日ばかり前に十九歳となっていたが、未だ相も変わらず日雇いの港湾人足仕事で生計を立てていた。
 中学を出て以来、このときまで全く進歩もなく日当の五千五百円のみにすがって生きる、不様なその日暮しの生活を経(た)てていた。
 無論、貫多とて何も好きこのんでそうなっていたわけではない。根が人一倍見栄坊にできてる彼は、本来ならば自分と同年齢の者の大半がそうであるように、普通に大学生であるのを普通に誇っていたいタイプの男なのである。当たり前の学問と教養を、ごく当たり前に身にまとっていたい男なのである。
 だが彼が大学はおろか、高校にさえ進学しなかったのも、もとより何か独自の理由や、特に思い定めた進路の為になぞ云った向上心によるものではなく、単に自業自得な生来の素行の悪さと、アルファベットも完全には覚えきらぬ、学業の成績のとびぬけた劣等ぶりがすべての因(いん)である。そんな偏差値三十レベル以下の彼を往時受け入れる学び舎は、実際定時制のそれしか残されておらず、これは馬鹿のくせして、プライドだけは高くできてる彼にかなりの屈辱であったのである。
 加えて、すでに戸籍上では他人になっているとは云い条、実の父親がとんでもない性犯罪者であったことからの引け目と云うか、所詮、自分は何を努力し、どう歯を食いしばって人並みな人生コースを目指そうと、性犯罪者の伜だと知られれば途端にどの道だって閉ざされようとの諦めから、何もこの先四年もバカ面さげて、コツコツ夜学に通う必要もあるまいなぞ、すっかりヤケな心境にもなり、進路については本来持たれるべき担任教諭とのその手の話し合いも一切行なわず、また教諭の方でも平生よほど彼のことが憎かったとみえ、さわらぬ神に祟りなしと云った態度で全く接触を試みぬまま、見事に卒業式までやり過ごしてくれていたから、畢竟、彼に卒業後のその就職先の当てなぞ云うのはまるでない状況だった。
 その当時、貫多は母親の克子から、十万円の現金を強奪するようにしてむしり取ると、その金で鶯谷に三畳間の部屋を借り、ひとまずそこを根城として働く先を探しだしたが、十五歳と云う満年齢では中学校側からの口利きがなければ土方の見習いどころか、新聞配達員にすらなれない現実を、この段になって初めて知るに至ったのである。
 はな貫多は、宿から歩いても行ける、最も近場の繁華街として上野にゆき、アメ横や中央通りなぞの商店の軒先をひとつひとつ見て廻り、そこに求人の札がないかどうかを調べたりしたものである。そしてたまさかアルバイト募集の貼り紙がしてあるのに喜びいさんで飛び込んでみれば、それは十八歳以上を対象とした求人であり、かつ高卒、普通免許も必須条件との、てんから彼なぞ受け付けぬ類のものばかりであった。それでも中に一軒、かような貼り紙をしていたカレー屋で、彼を奥の事務室みたいな部屋へと招じ入れてくれたところもあったものの、履歴書すら持参せぬ全くの世間知らずの彼は、僅か数分で苦笑いに送られて外に押し出される始末だった。
 どうにも初手からして計算違いだったわけだが、更にはそれまでは家で母親の金をちょくちょく盗み、中学生の分際で深夜にしばしば伊勢佐木町界隈なぞを徘徊して、いっぱし若きローンウルフ気取りでいたような彼も、いざひとりで生活してみると便所の紙一枚使うにも金がかかると云う道理を身をもって感ずるに至り、そのアパートを借りたあとに残った六万円程の金も、当初は一回飯を食えば確実に目減りしてゆくと云うことにすら、全く思いが及ばないような次第であった。
 そうなると、最早履歴書を握りしめ、働き場所を当てもなく足で探すなぞ云う悠長な行動をとれる展開でもなく、これには強いあせりを覚えたが、しかし人間窮すれば大したもので、どこでどう気付いたのか、それまでそんなものはまるで念頭にもなかった、売価百円の求人雑誌と云うのを彼は手にすることになり、そこには年齢不問の上に給料を日払いでくれる、“埠頭での荷物の積み下ろし”なる働き口と云うのがデカデカと掲載されていた。
 すぐさま電話をかけてみると、受話器の向こうの担当者は実にあっさりと彼を雇い入れてくれ、電話口で名前を聞いただけで、あとは履歴書提出の必要もないと言う。汚れてもいい服と軍手、それに認め印だけ持って翌朝七時に来るようにとのことである。
 これに貫多は、募集要項には八時半から夕方五時までの作業時間とあるのに随分と早くに招集するものだと、半ば訝しがりながらもしかし背に腹はかえられぬ思いで、翌日、まだ江戸川にいた子供時代の、少年野球の日曜練習時以来となる早朝六時に何んとか目を覚ますと、薄ボンヤリした頭で山手線内のとある駅に程近い、その会社へと行ってみた。と、かの社の入口附近には幾台もの小型のマイクロバスが停まっており、その周辺には余り上品そうにも見えない老若の男が、何やら数十人ばかりたむろしている。
 その連中の間をかいくぐるようにして、おそるおそる受付けのところまで進み名前を告げた貫多に、応対した初老のずんぐりした小男は手元に拡げてあるノートをチラリと見て、そこに書き込まれているらしい彼の姓名との符合を確認すると、いきなり、「じゃ、お前はそこの“五”と書いてあるバスだ」と指示を出し、そこで彼が、今日が初めての新顔であるのを覚ったのかどうか、「金は作業後に現場でもって渡すから、ハンコを押して貰ってくれ」なぞ付け足し、それで早くも貫多の存在は小男の眼中から消え去ってしまった様子。
 そして何かしらこの時点で逃げ出しといた方が良さそうな不安を抱きつつ、その、示されたバスと云うのに乗り込んでみれば、車内はすでに二十人程の先客がおり、座席はすべてふさがっていて、これにも一寸オドオドしていると、横合いから運転手による、「一番奥に行って、補助席を降ろして座っていろ」との命令のような指示がここでも下り、そののち更に五人ばかりも積んでから出発したバスが小一時間後に到着した先は、昭和島の羽田沖に面した冷蔵の物流倉庫の一軒であった。
 つくとすぐに着替えを命じられて作業となり、成程七時集合とはこう云う仕組みであったからかと得心したが、さて貫多が初めて体験したところのこの肉体労働は、何か冷凍のイカだかタコだかの、三十キロ程もある板状の固まりを延々木製のパレットに移すだけの、ひたすら重いばかりで変化に乏しい、実に単調な作業であった。
 夕方になって貫多は、昼に支給された弁当代の二百円を天引きしてあると云う、待ちに待った日当を受け取り、この作業内容で五千五百円と云うのは妥当な額なのかそれともひどく安いのかもよくわからなかったが、しかし、とあれ初めて自らの手で金を稼いだ感慨は、根が子供の頃からたかり、ゆすり体質にできてる彼と云えども確と湧き、帰りのマイクロバスの中では一種心地良いような疲労感を楽しむ心の余裕さえも生じているようであった。その彼は案外生きてゆく為の労働なぞ容易いものだな、との嘗めた思いも抱き始めていたのである。
 そして、今思えばこれがいけなかったのだ。(以下略)
 

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