文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

マスコミの権力構造を潰さない限り「小沢事件」は終わらない。

久しぶりに、というか、今回で、わずか二回目なのだが、昨日、鶴川にある、旧白洲次郎白洲正子邸、いわゆる、敗戦直前に藁葺き屋根の養蚕農家を買い取り、改造を繰り返し、白洲夫妻が「終の棲家」にしたという「武相荘」に行って、白洲正子の書斎を見てきた。この住まいを見ながら、物思いに耽っていると自分の原点に立ち戻れるような気がする。そこで、白洲次郎の言ったという言葉に、興味が沸いた。サンフランシスコ講和条約調印式にに、吉田茂全権大使一行に、特別顧問として随行した白洲次郎は、こう言ったそうである。「我々は戦争に負けただけであって、奴隷になったわけではない」と。なかなか含蓄のある言葉ではないか。さて、小沢一郎問題だが、「小沢起訴は無効である」と言う声が、司法関係者を中心に、日増しに増えているように見えるが、しかし「小沢事件」の本質は、前回も書いたが、検察審査会による「起訴相当」なる議決が無効か有効か、あるいは小沢一郎が無罪か有罪か、黒か白か、というような司法的な次元の問題ではない。そういう司法的次元の問題は、あくまでも消極的な問題であって、本質的な問題ではない。なぜ、検察とマスコミが、グルになって、小沢一郎の政治的抹殺を執拗に画策するのか、を考えるまでもなく、それは明らかだろう。司法的な問題にも拘らなければならないが、それにのみこだわり続けるということは、問題を矮小化することであり、いわゆる政権交代や政治改革を伴う「小沢問題」なるものの積極的意義を見失うことである。何のために小沢一郎は、現在まで、苦しい闘いを闘い続けてきたのか。まさか、無罪を獲得するためでも、政治的延命を図るためでもあるまい。「政治家・小沢一郎」は、何かをやりたいのであり、何かをやろうとしているのだ。その「何か」が、マスコミや検察を恐慌状態に追い込み、必死の悪足掻きをさせているのであり、その悪足掻きの一つとしてマスコミや検察が必死の抵抗の試みとして画策しているのが「小沢事件」なるものであり、それがまた、「小沢事件」の本質の一端を垣間見せているのである。


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