文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

左翼はすぐに転向する。

菅直人首相、千葉景子法相、辻元清美議員の例を持ち出すまでもなく、政治家にしろ文化人にしろ、また学者や思想家にしろ、左翼とか左翼市民運動家というものは機を見るに敏で、時至らばいつでも転向するという体勢を整えている人種である、と僕は若い頃から確信していたが、その確信は、最近になって、いよいよ深まりこそすりれ、決して弱くなることはない。僕が自民党を批判し、民主党を擁護する言論を展開することが少なくないことから、「お前は左翼ではないのか」という批判を受けることがあるが、僕は、言うまでもなく自分の思想的立場を「左翼」と思ったことは一度もない。といっても、最近の「一億総保守」時代の、いわゆる「保守」バブルに便乗して一儲けしようと企んでいるわけではない。僕は、左翼全盛の全共闘時代にも自己意識としては「保守反動派」を自称していたし、それは、「一億総保守」時代を迎えた今でも変わりはない。むしろ、僕は、最近の右翼や保守を声高に自称し、にぎやかに天下国家を語り、歴史観や国家観、あるいは国益を論じ、大衆や国民に向かって、あるいは政治家達に向かって、愚にもつかないような「お説教」を得々と繰り返すような鈍感な連中に対して違和感と侮蔑感を禁じえない。そこには「左翼化された右翼」、「左翼化された保守」しか見つけることが出来ない。僕が、ここで「左翼化」というのは、「イデオロギー化」とか「概念化」「理論化」というほどの意味である。前衛意識に凝り固まった似非エリートの群れ・・・。さて、左翼は、何故、転向するのだろうか。そして、何故、右翼は、あるいは保守と言われるような人たちは転向しないのだろうか。むろん、現在、右翼とか保守と自称している人たちの中には、多くの元左翼が含まれているから、そういう左翼からの転向組であるところの右翼・保守は、再び、あるいはみたび、転向するかもしれない。かつて戦時中、思想弾圧と戦争ブームに乗って左翼から転向してきた右翼・保守思想家連中が、戦後の民主化の波に乗って、再び元の古巣の左翼(共産党)に転向していったように・・・。ところで、僕が「転向」に拘るのは、そこに左翼的思考様式の典型を見出すからである。吉本隆明に『転向論』という名著があるが、そこで吉本は、必ずしも左翼から右翼・保守への転向者を、その転向故に批判し否定したのではなく、むしろ、宮本顕治のように、「獄中○○年」を過ごしながらも、「転向しなかった」という連中をも批判しているが、その根拠を日本的な「大衆」との距離に求めていて、大衆との距離の自覚、あるいは無自覚こそが、人を転向させたり、させなかったりするのだと言っていた。つまり、思想信条の問題ではなく、吉本隆明の言うところの「関係の絶対性」が問題なのである。言い換えれば、左翼が簡単に転向するのも、また転向せずに教条主義に陥るのも、たとえば田舎に住む父親や母親、あるいは兄弟姉妹に象徴される日本的な下層大衆(沈黙する国民)というものの存在を軽視し、無視・軽蔑しているからであり、逆に右翼・保守派といわれるような人たちが、なかなか転向しないのは、そういう田舎に住む下層大衆(沈黙する国民)とともにあるからだ、と言うことが出来る。吉本隆明は『転向論』でこう書いている。

日本的転向の外的条件のうち、権力の強制、圧迫というものが、とびぬけて大きな要因であったとは、かんがえない。むしろ、大衆からの孤立(感)が最大の条件であったとするのが、わたしの転向論のアクシスである。生きて生虜のはずかしめをうけず、という思想が徹底してたたきこまれていた軍国主義下では、名もない庶民もまた、敵虜となるよりも死を択ぶという行動を原則としえたのは、(あるいは捕虜を恥辱としたのは)、連帯認識があるとき人間がいかに強くなりえ、孤立感にさらされたとき、いかにつまずきやすいかを証しているのだ。(吉本隆明『転向論』講談社文藝文庫p291)

大衆との連帯感と大衆からの孤立。吉本隆明は、転向は権力の弾圧や強制によるものではなく、むしろ本人の思想的な内発的意思によると言う。ところで、最近の陽気な保守思想家たちは、あるいは「消費費税増税」を、国民への約束の裏切りという見地から批判した小沢一郎を、「大衆迎合」と批判した枝野某等は、はたして、その「大衆の原像」(吉本隆明)なるものを思想的に内部に取り込んでいる、と言えるだろうか。物言わぬ大衆とやらを愚弄することを商売にしている元左翼活動家であり、典型的な転向保守の見本である西部邁が、近著『小沢一郎は背広を着たゴロツキである』で、こう書いている。

そうしてみれば、マスつまり「社会の大量現象に逃げ込む者たち」としての大衆こそが「ゴロツキの巨大な集団」であることが明らかとなるに違いない。ゴロツキ大衆の演じる集団喜劇、それが「民主主義政治」だということも確認されるであろう。(西部邁小沢一郎は背広を着たゴロツキである』p220)

相変わらずの大衆蔑視、衆愚批判である。西部邁は、大衆の「集合的無意識」の恐ろしさを知らない。愚かな大衆は、西部邁より先を走っている。西部邁が転向を繰り返す根拠はここにある。西部邁は、左翼過激派時代に逮捕され、刑期を終え、落ちぶれた姿で、北海道に住む両親の家に帰った時、父親に門前払いをくらい、暗い夜道を、一人とぼとぼと引き返したことを、何処かに書いていたが、その時、彼は何も自覚しなかったのだろうか。それとも、また、夢よもう一度とばかりに、今度は東大教授に成り上がり、ないしは保守思想家として出世して、有名になって故郷に錦を飾り、凱旋しようと誓ったのだろうか。いずれにしろ、ここには、「西欧の政治思想や知識にとびつくにつれて、日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリ」がいるだけのように見えるし、「これらの上昇型インテリゲンチャの意識は、後進社会の特産である」(吉本隆明)ということになろう。要するに、西部邁の思想遍歴に「思想性」はないのである。ところで、保守思想家としての西部邁は、「自民党自滅」と「政権交代」で絶望的な気分になっているのであろうが、しかし政権交代を可能にしたのも大衆であり、参院選民主党を惨敗に追い込んだのも大衆である。大衆に見捨てられた西部邁は、また大衆に追いつくために「再転向」するのか。大衆の「集合的無意識」の恐ろしさに直面させられて、今や顔面蒼白に青褪め、呆然と立ち尽くすだけのデクノボーになっているのが菅直人であるが、おそらく西部邁も似たようなものだろう。



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