文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

屋山太郎は「詐欺師」だったのか?

昨日は、豊島公会堂横の某所で行われた「月刊日本」主催の「植草一秀講演会」に行って来たが、狭い会場だったとはいえ、椅子が足りないほどの盛況であったが、半数は申し込みの段階で、満員ということでお断りしたらしいから、植草先生の個人的な人気というのはもちろんあるだろうが、それだけではなく、もっと根深い社会的な流動化の「うねり」のようなものを強く感じた。植草先生は、「米・官・業・政・マスコミ」の、いわゆる「悪徳ペンタゴン」による国家支配の実態を経済の観点から暴露していったわけだが、とりわけ菅直人に関して、これまでの個人的交流等を踏まえて、あまりにも急激な言動や思想の変化、つまり「菅直人の変身」の有様を語ったのが印象的だった。菅直人も、結局、「米・官・業・マスコミ・・・」の支配権力に屈服したのであり、屈服することによって「小沢一郎排除」「官僚・マスコミ迎合」「日米合意の尊重」等を交換条件に総理総裁の椅子を手に入れたということになる。植草先生の話を聞きながら、「左翼」「市民派」の出身とは言いながら、地位や権力のために「魂を売った」菅直人内閣は、おそらく自民党政権よりも自民党的になっていき、日本国民にとっては不幸なことだが、権力維持と政権維持のためには何でもやる…警察も闇の力も行使する…という「小泉政権の再来」ということになっていくのだろうと思った。さて、話は変わるが、「岩手日報」の捏造社説問題だが、元はといえば、捏造騒動の原点は「産経新聞」と「屋山太郎」の問題であったわけだから、「岩手日報」の捏造社説を許してはならないのは当然だが、「岩手日報」だけを批判するのは公平ではないだろう。羊頭狗肉を売る詐欺本『小沢君、水沢にかえりたまえ』の巻頭に、本文の趣旨とは百八十度も違うようなトンデモ解説を書いて平然としている屋山太郎厚顔無恥の詐欺師ぶりが、いかにも「官房機密費」まみれの「新聞記者あがりの政治評論家」を彷彿とさせて、面白い。詐欺のお先棒を担いで平然としていられるとは、「新聞記者あがりの政治評論家」って、そこまで卑しく、卑屈に、しかも居丈高になれるものなのか。屋山太郎は解説で、江藤淳の代表作を『閉ざされた言語空間』だと書いているが、むろん誰でも知っているように 江藤先生の代表作は『夏目漱石』論や『漱石とその時代』等、いわゆる漱石論であって、『閉ざされた言語空間』は政治思想関係の著書としては貴重なものだろうが、江藤先生にとっては一種の「余技」の産物に過ぎない。そんなことも知らずに江藤淳を語り、江藤淳の本の解説を書き、「江藤淳小沢一郎に期待し過ぎた」とか「江藤淳小沢一郎に騙されていた」等と、死者に鞭打つようなトンチンカンな批評を付け加えるとは、これまた、いかにも「官房機密費」まみれの「新聞記者あがりの政治評論家」にふさわしい不遜な所業と言うべきか。江藤先生は、すでに学生時代に「三田文学」に発表した『夏目漱石』論で、次のように書いている。「しかしぼくらが漱石を偉大という時、それは決して右のような理由によってではない。彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり、一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである。(中略)彼が「明暗」に「救済」の結末を書いたとしたら、それは最後のどたん場で自らの問題を放棄したことになる。(中略)そして生半可な救済の可能性を夢想するには、漱石はあまりに聡明な頭脳を持ちすぎていたのである。」僕は、「彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり…」と書きうるような鋭い人間観察力と鑑識眼を持つ「江藤青年」が、後年、政治家・小沢一郎に対して行った論評において、他人から「期待しすぎた」とか「騙されていた」とかいうような解説がされるとは思わなかっただろう。むろん、江藤淳には「小沢一郎」という政治家の人間的本質が見えていたのだ。「見える人には見えるだろう」(小林秀雄)とでも言うほかはない。おそらく江藤淳は、自分よりも若い「政治家・小沢一郎」を論じるのに、漱石を論じるような姿勢で臨んでいたのである。だからこそ、批評家生命を賭けて、「小沢一郎絶賛」の文章を書き、残してくれたのである。ところで、屋山太郎は、「そもそも小沢氏が『理想とする日本の姿』とは何か。それは全く見えない。」「能弁に保守思想を語るが、小沢氏は保守政治家ではない。」「しっかりとした国家観と歴史観を持った保守政治家だと考える人は多かったが、それは全くの間違いである。」「権力志向ゆえに、トップに上りつめること自体が彼の目的だからだ」「つまり、何があろうと曲げないという信念がない。」…と、「語るに落ちる」ともいうべき批判を展開しているわけだが、これは江藤淳小沢一郎評価とまったく関係ない内容のものである。これらの文を読むまでもなく、批評力の欠如、思想性の不在を感じないわけにはいかないが、では、屋山太郎の理想とする保守とは何であり、保守思想とはどんな思想であり、また保守政治家とは誰なのか、と問いたい。まともに答えられるはずがない。この程度の粗雑で、稚拙な「小沢一郎批判」を書くぐらいなら、見苦しい詐欺師的振る舞いはやめて、自分で「小沢一郎批判」の本を書けばいいではないか。何故、江藤先生の貴重な「小沢一郎論」の解説として、江藤論文を汚す形で、下品な「小沢一郎批判」を書き連ねねばならないのか。僕は、この解説文を読んで、屋山太郎が「保守」だと初めて知ったが、こんな下司野郎が保守だというのなら、即刻、僕などは保守をやめてもいい。江藤淳先生や小林秀雄の「保守」はラディカリズムとしての保守であり、屋山太郎のような世俗的な、世渡り上手な「処世術的保守」ではない。僕は、小沢一郎的「保守思想」は、江藤先生や小林秀雄の保守思想に近いと考える。
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