文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

時代遅れの政治学者・中西寛(京大法学部教授)に告ぐ(笑)・・・

某週刊誌に、今頃になって、マスコミの全員一致のファシズム的な「小沢バッシング報道」の洪水に乗せられれたのか流されたのか知らないが、京大法学部教授を名乗る政治学者が、「時代遅れの政治学者・小沢一郎に告ぐ」なんて、新聞情報を真に受けたかのような稚拙な「談話」で、たとえば「田中角栄型」「バラマキ型」「カネと権力による支配型」「時代遅れ」というような手垢にまみれた批判的言語を乱用し、恥ずかしげもなく「小沢一郎バッシング」に参加・追随しているわけだが、「日本の政治学者もここまで堕ちるのか」と唖然とせざるをえない。中西にしろ、山内昌之(東大教授) 、山口二郎(北大教授)、宮台真司(都立大教授)等にしろ、大新聞の全員一致のファシズム的な「小沢バッシング報道」の洪水に乗せられれたのかのように、紋切り型の小沢一郎批判を展開しているが、その批判は受け売りとパクリばかりで、何一つ新鮮な論点はなく、聞き飽きた言辞ばかりで、政治学者とか社会学者とは言いながら恥ずかしくないのか、と言わざるをえない。僕は、日本の「政治」や「政治家」がここまで堕落した原因は、政治ジャーナリズムや政治学者、そして政治評論家というような政治的な「言論人」の思想的レベルの下落にあると考えてているが、その具体的な見本を、中西寛等の不用意というか、「みんなで渡れば怖くない」的な付和雷同的「小沢一郎バッシング報道」の模倣・反復に見ることができると思う。「小沢一郎」のような独創的、パワフルな政治家を批判するのに「時代遅れ・・・」も何もないだろう。政治権力の本質が、そんなに簡単に変化するはずがない。それでは、マキアヴェリの『君主論』は「時代遅れ・・・」なのか。ドストエフスキーの『悪霊』は「時代遅れ・・・」なのか。そんなはずはない。「時代遅れ・・・」なのは、「政治家・小沢一郎」の政治的本質が読めず、通俗的な言論しか展開できないこれらの言論人なのではないのか。中西は、京大で、戦後民主主義的な戦後の流行思想に敢然と立ち向かい、政治学者としては異例の過激な批判を展開した『現実主義者の平和論』『宰相吉田茂』等でお馴染みの「危険な思想家」・高坂正尭(政治学者)の教え子らしいが、恩師の高坂正尭が「自分の頭で考える」「マスコミの言説に付和雷同しない」「批判罵倒を恐れず自説を貫く」・・・というような、つまり「孤立無援の政治学者」「危険な思想家」として恐れられたのに対して、それ故に戦後の政治学者の中で独自の地位を築いたのだが、その弟子である中西は、もっぱらマスコミの言説を鵜呑みにし、全員一致のファシズム的な「バッシング報道」の洪水に、いとも簡単に流されるような凡庸な政治学者、つまり「安全な思想家」だということがわかる。中西は、高坂正尭の代表作『宰相・吉田茂』(中公クラシックブックス)の編集と解説もやっているが、高坂正尭という政治学者の「孤独な闘い」の思想的意味も、「危険な思想家」と呼ばれた理由も何もわかっていないといわざるをえない。むろん、「時代遅れ・・・」なのは、中西寛のような政治音痴の自称・政治学者の方であることは言うまでもない。





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