文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

作家になるとは共同体を出て、砂漠に留まることである

作家になるとは共同体を出て、砂漠に留まることである。江藤淳石原慎太郎が教授や政治家になったことは逆説的な意味で価値があった。しかるに古井由吉は作家になると同時に大学教授を辞めた。つまり、その時、古井由吉は共同体を出て、砂漠に留まる決心をしたのだ。それ以来、古井由吉は筆一本で喰ってきたはずである。しかし現在、作家たちは、たとえば高橋源一郎島田雅彦も、我先にとくだらない大学の教授になり生活の安定と社会的名声を目指しているように見受けられる。文学が滅びるのは当然だろう。ここ二、三日、twitterに関する興味深い場面に出くわしたので、書いておきたい。一つは、先日、「風花」という文壇バーにおける朗読会に、僕も出席したのだが、その朗読会の様子が、twitterで同時中継されていたこと。おそらく、これまでなら、四、五十人の出席者たちしか見ることが出来ない作家や批評家の生の朗読会の風景を、多くの人が、全国、何処にいても同時的に、しかも無料で見ることが出来たということである。私は、これは、文学の復活にとって小さくない意味を持つと考える。文学は、元々、作者と読者が、商業出版や編集者という中間項(媒介物)を抜きに、直結していた。田山花袋の『蒲団』が描くように、地方の読者が、作家に手紙を書くと返事が来て、作家志望者として作家の家に住み込み、内弟子となることさえありえた。商業ジャーナリズムの発達とともに、作者と読者は切断され、作品だけしか手がかりはなく、作者の存在は、読者からは見えなくなった。ところで、先日のtwitterによる朗読会の同時中継は、無料だというから、おそらく作者と読者の距離を縮め、作者と読者の断絶を解消することになろう。純文学にとっては、作品よりも作者が問題なのだ。言い換えればニーチェが言ったように「誰が語るか」が問題なのだ。ここには、形而上学批判、あるいは物語り批判という意味が込められている。もう一つは、「朝日新聞」の「メディア激変」という特集がtwitterをとりあげていること。これは、朝日新聞が、ネツトやブログ、そしてtwitterの登場によって、「メディア激変」という特集を組まざるを得ないような危機的状況に追い込まれているということである。今年は、「電子書籍元年」と言われているが、「紙の本がなくなる…」かもしれないという恐怖が、商業出版メディアにとって現実のものになりつつある。現に、この僕にしてからが、まず新聞を購読していないし、書籍類にしても、必要、最低限の書籍しか買わなくなっている。必要な資料や情報が、ネットを通じて簡単に収集出来るからだ。ちなみにNHKも、「ネット・ジャーナリズム」と伝統的なマスコミ・メディアとを比較する特集を放送したらしいが、僕は見ていない。しかし、そこで何が議論されたかは、見なくても分かる。さて、そういう時に、訳知り顔で登場するネット評論家とかブログの女王とか、アルファ・ブロガー、あるいはtwitterに詳しい人とかいう種族がいるが、そういう類の名前を聞く度に、僕は、古臭く感じるが、何故なのか。ネツトやブログ類に関して新しいツールが登場する度に、ミニスターが誕生するが、しかしそのミニスターが消えていくのも早い。僕は、blogやtwitterなどに関して得意げに語る人を見る度に、「もう古いよ」と言いたくなる。おそらく、現場や現実はもっと先を行っているからではないか。問題はそのツールの新しさや利用法等ではなく、何をやるかではないのかとふと思う。そういう人というのは、要するに、twitterには詳しいが、やっていることは古臭い、ということだろう。ところで、「文芸誌も売れなくてはならない」と、大塚某などが言い、それを真にうけて「売れる文芸誌」を目指し始めた頃から、文芸誌は社会的な存在感というものを失ったように見える。つまり、文芸誌は、「売れる雑誌」を目指したが故に、若者向けの軽い大衆迎合的な内容となり、逆に、読まれなくなっただけでなく、問題にもされなくなったのである。売れないが、密に読まれる雑誌、あるいは問題にされる雑誌・・・それが、今、必要な雑誌だろう。最近、地盤沈下が激しいと言われ続けてきた文芸誌というメディアは、これから復活していくのではないか。新聞、テレビ、そしてマンガも売れなくなっていくとすれば、元々、「売れないこと」を前提にして成立していた文芸誌にとっては、いい時代が来たというべきではないのか。さて、twitterで同時中継され、多くの人が見た朗読会で、筆一本で喰っている古井由吉連句を読み、柄谷行人が孤独な放浪学者・ミヨシマサオへの追悼文を読んだが、いずれも興味深いものだった。特に、東大英文科出身でありながら、早くにアメリカに渡り、アメリカの大学に職を得て、アメリカで活動したが故に、「東大英文科」という共同体から排除・忘却・隠蔽され、徹底的に日本社会から無視され続けたミヨシ・マサオを評価した柄谷の朗読は、意義深いものだった。作品よりも、その作者の生き方が、つまり作者の存在性が問われるのが純文学なのだ。


twitter朗読会中継
http://www.ustream.tv/recorded/5925909



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