文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

民主党政権とレーニン主義…「吉本隆明・中沢新一対談」を読む。

前回に続けて吉本隆明について書く。「中央公論」という総合雑誌を久しぶりに購入し、「アジア的なものと民主党政権の現在」という吉本隆明中沢新一(多摩美大芸術人類学研究所長)の対談を中心に読んでいるところだが、「中央公論」も出版不況の波をもろに受けて倒産、身売りを経て読売グループ入りしたこともあって、当然のことではあるが、その雰囲気がずいぶん変化しているように思われる。昔は、編集方針に、何か一本、筋が通っていると感じたものだったが、今回、手にした「中央公論」には、そういうものは感じられず、いろんなものが雑然と並べられているだけで、゛いささか喰い足りないという感じてあった。僕が、「中央公論」を熱心に読んでいたのは、ちょうど大学が全共闘運動に巻き込まれる前後で、たとえば永井陽之助(北大教授、後に東工大教授)という、どちらかといえば保守系政治学者が、毎月のように重厚、かつ柔軟な思考と分析を繰り広げる斬新な政治評論を発表していたが、僕は「左翼学生運動」の政治思想に熱中する同世代の若者たちと一線を画し、密かに彼等の知性と教養を軽蔑していたので、その対極にあるように思われた永井教授の文章を愛読していたのである。だから、永井教授の『平和の代償』『柔構造社会と暴力』『時間の政治学』を初め、高坂正尭の『宰相・吉田茂』大木英夫『終末論的考察』等が並んだ「中公叢書」という論文シリーズは、僕の憧れの的で、いつの日か、「中公叢書」という論文シリーズに加えられるような論文が書けるような学者か評論家になりたいものだ、と漠然と夢想していたものだった。さて、その「中央公論」四月号で、吉本隆明中沢新一が対談を行っているが、やはり「戦後思想の巨人」と呼ばれる吉本隆明だけのことはあって、他の学者、評論家、思想家たちとは異なった本質的な議論を展開していて面白い。逆に言い換えるならば、これは、対談相手の中沢新一を含めて、現在、論壇やアカデミズム、そしてジャーナリズム等で活躍する学者、評論家、思想家たちが、いかに本質的な、原理的な思考を展開していないか、あるいは出来ていないかを、象徴的に物語っているということだろう。中沢新一によると、吉本隆明は、昨年の衆院選の前に、自民党の惨敗と政権交代の可能性を強く主張していたらしいが、その時、同席していた中沢新一糸井重里等は、「自民党の大敗はない」だろうと言っていたそうである。この両者の情勢認識の違いは、予想が当たるとか当たらないという問題以前に、思想家や表現者の資質と才能のレベルの違いを示しているように見受けられる。この対談でも、吉本隆明が、「民主党がこれからどこまで行くかと言えば、だいたいロシア革命の後、レーニンが突き進んだ地点の直前まで行く可能性があると見ています」「昔もいまも僕は、レーニン主義まで行ったらダメだよと言っているんです。レーニンの死後、スターリンレーニンを神格化し、独裁体制を作った」「戦後すぐに僕はマルクス系統の政治思想や古典経済学の勉強に打ち込んだのですが、真剣に勉強した後でも、レーニン主義は違うよと思ったんです」…というような「レーニン主義批判」を語っているのに対して、中沢新一は、「レーニンに関しても、この二人(ヴェーユと宮沢賢治)の場合と同じものを感じます。つまり、吉本さんは、レーニンという天才がすごいことを誰よりも認識している。それだからこそ、レーニン主義に突き進んでいく人間が多数になったとき、とてもよくないことが起こると言われているわけですね」と応じているが、吉本隆明の発言の重さに較べて、いかにも陳腐であると言わなければならない。ちなみに、中沢新一には『はじめてのレーニン』という著書があるが、その『はじめてのレーニン』の執筆動機は、「1989年にベルリンの壁が壊れ冷戦が終結して、91年にはソ連が崩壊し、もモスクワでは市民たちの手によってレーニン像が破壊されました。そのとき、僕はようやくレーニンの思想について、共産主義について、偏見や先入観から開放されて自由に語りだすことができると思いました。それで『はじまりのレーニン』という本を書きました」というものだったらしいが、この話でも同様だが、中沢新一は、マルクス主義共産主義の「理想」が現実的に破産した後で思考すること、つまり事件が終わった後から事件を考察するという「事後の思考」、言い換えれば「結果論的思考」に閉じ込められているように見受けられる。これは、吉本隆明が、「ベルリンの壁」崩壊やソ連崩壊以前に、マルクス主義共産主義が現実的に生きていた時代に、「レーニン主義」あるいは「マルクス主義」批判を展開していたこととの間には大きな落差がある。僕が、政治思想的には、保守・右翼派を支持しているにもかかわらず、吉本隆明を読み続ける理由もそこに、つまり事件の渦中で思考すること、どう転ぶか解らない危機的状況の中で思考すること、要するに批評的思考にある。さて、吉本隆明中沢新一も、この対談で「アジア的なもの」、つまり「アジア的生産様式(マルクス)」や「東洋的デスポティズム(ウィットフォーゲル)」を重要視しているが、では「アジア的なもの」とは何だろうか。またそれが、民主党政権の現在とどう関ってくるのだろうか。(続く)




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