文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

東條英機と大東亜戦争


渡部昇一氏や小堀桂一郎氏等は、東條英機の「宣誓口述書」を論拠として、「大東亜戦争・自存自衛論」を展開し、日本無罪論を主張しているようであるが、東條英機は、大東亜戦争の開戦に際して、当初、はたしてどう考えていたのだろうか、という問題になると、彼の「大東亜戦争・自存自衛論」なるものも、単に「後付け」の論理という以前に、むしろ、戦局の動向次第では、開戦の結果責任を取らされる立場にある身として、どうにかして開戦責任の追及から逃れたいと言う、いわゆる「責任逃れの意図」が見え隠れすると言わなければならない。それは、たとえば、東條英機が、天皇が、再三、「開戦理由」の説明を東條英機に要求したにもかかわらず、なかなかそれを提示できなかったというところに見ることが出来る。たとえば天皇は、1941年11月2日、

戦争の大義名分を如何に考うるや

と、東條英機に下問している。その時の東條英機の答えは、

目下研究中でありまして何れ奏上致します

というもので、11月4日の軍事参議院会議の東久邇宮稔彦陸軍大将の質問に対しても、

戦争目的の顕現に関しましては、具体的に如何に示すべきやに関し研究中なるも、唯今御前に於いて確信を以て申す迄に至りあらず

と答弁している。つまり、開戦直前まで、「大東亜戦争・自存自衛論」なる理念も明確には決まっておらず、従って当然のことではあるが、天皇に説明することも出来なかったということは、大東亜戦争の戦争目的が、流動化していたということであって、つまり敗戦後、東條英機東京裁判で堂々と、確信を持って展開する「自存自衛論」なる理念も、渡部昇一氏や小堀桂一郎氏が考えるほど、開戦前後は、自明でも絶対的でもなかったということであろう。敗戦後の東京裁判法廷における東條英機の「宣誓口述書」も、それなりに意味のある文書だろうが、渡部昇一氏等が考えるほど決定的な意味を持っているわけではない。12月8日、午前11時40分に公表された「宣戦の詔書」においては「大東亜戦争・自存自衛論」を前面に打ち出しているが、午後7時30分から始まったラジオ放送「宣戦の布告に当り国民にうつたう」で、情報局次長・奥村喜和男は、激烈な「アジア開放戦争論」の論理を国民に向かって展開している。おそらくこちらの方が、日本の戦争目的としては自然であったろう。

国民諸君、同胞諸君!今将に時は至ったのであります。われらの祖国日本は今、蕨然立って雄雄しく戦いを開始いたしたのであります。(中略)錦の御旗は南に、東に、北に、西に躍進して突進して、アジアの歴史を創るのであります。アジアは白人の手からアジア自らの手に奪いかえすのであります。アジア人のアジアを創りあげるのであります。

情報局次長・奥村喜和男の開戦の論理は、積極的、能動的なアジア開放戦争論だと言っていい。この言葉から考えられることは、少なくとも、大東亜戦争の戦争目的をめぐって、指導部が、受動的な「自存自衛論」と能動的な「アジア開放戦争論」との間を揺れ動いていたということだろう。受動史観としての「大東亜戦争・自存自衛論」で意思統一がなされていたわけでもないのである。むしろ日本人のホンネとしては、大東亜戦争の戦争目的は、受動的な「自存自衛論」ではなく、能動的な「アジア開放戦争論」にあったと言うべきだろう。むろん、僕は、能動的な「アジア開放戦争論」としての大東亜戦争を批判しているのではない。むしろ、それを積極的に評価する。しかしながら東條英機は、この能動的なアジア開放戦争論を極度に警戒し、その結果、それを徹底的に抑圧し、隠蔽しようとしていたように見える。そして東京裁判法廷においても、能動的なアジア開放戦争論を隠蔽しつつ、徹底的に受動的な「自存自衛戦争論」を主張したように見える。渡部昇一氏や小堀桂一郎氏、そして田母神俊雄氏等は、東條英機の主張した受動的な「自存自衛戦争論」で理論武装しているが、僕には、それこそ「弱者史観」であり、「被害者史観」であるように見える。





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