文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

芥川賞候補に29歳イラン人女性シリン・ネザマフィの「白い紙」も…。

dokuhebiniki2009-07-03



第141回芥川賞直木賞日本文学振興会主催)の候補作が発表されたようだが、芥川賞に、イラン・イラク戦争によって引き裂かれた若い男女の恋を描いた「白い紙」(文学界6月号)がノミネートされた模様である。作者は、マスコミが騒ぎ出しそうな29歳の在日イラン人女性のシリン・ネザマフィ。もちろん日本語は母国語ではない。在日中国人・ヤン・ツィーに続く外国人女性の芥川賞候補で、何やら商業主義的なショーのような印象も否定できないが、作品それ自体は、決して悪くない。むしろ、現代日本文学が陥っている閉塞状況を打破し、突破するかもしれない原初的な文学的情熱を秘めた作品で、素朴ではあるが、他の候補作品に見劣りするものではないだろう。僕も、「月刊日本」6月号の「文芸時評」で取り上げたばかりであった。それ以外の候補作を見てみると、相変わらず映画や演劇の関係者が多く、現代日本文学が大きな曲がり角に来ていることを示しているように見える。外国人が文学賞の候補になったり、受賞したりすると、国際化とかグローバリゼーションという言葉が氾濫するのが通例だが、そんなステレオタイプな言葉とは関係なく、彼女たちが、真剣に「外国語としての日本語で、日本の小説を書いてみよう…」としていることは確実で、ある意味では、「小説を書くこと」の原点に立ち帰っていると思われる。われわれ日本人は「日本語」に慣れすぎているがゆえに、「日本語」や「日本文学」の本質を知らないが、彼女たちは、日本語を異国の言語として捉えているがゆえに、日本語を、単なるコミュニケーション言語としてではなく、まさしく原初的体験としての言語として感受している。つまり、われわれに見えないものが見えていると言うことだろう。元来、文学や小説というものは、そういうものであったはずだ。日本人でありながら、日本語を外国語のように体験すること…。ミハイル・バフチンが「ダイアローグ」とか「ポリフォニー」と言い、柄谷行人が「外部」とか「他者」とか言うのは、このことと無縁ではない。
[

芥川賞候補にネザマフィさん
29歳イラン人 文学界新人賞「白い紙」で



 第141回芥川賞直木賞日本文学振興会主催)の候補作が発表され、芥川賞では、「白い紙」(文学界6月号)を書いたイラン人女性、シリン・ネザマフィさん(29)がノミネートされた。

 この小説は、イラン・イラク戦争によって引き裂かれた若い男女の淡い恋を描き、文学界新人賞を受賞した。

 ネザマフィさんはテヘラン出身。1999年に来日し、神戸大大学院を経て2006年から今年春まで大阪府内の大手電機メーカーに勤務。海外のグループ会社への転勤が決まり、現在は日本を離れている。

 日本語を母語としない外国人が候補になるのは、昨年夏に受賞した中国人の楊逸(ヤンイー)さん以来。両賞の選考は、15日午後5時から東京・築地の新喜楽で行われる。

 候補作は次の通り。

 ◇芥川賞(ネザマフィ作品を除く)磯崎憲一郎「終(つい)の住処(すみか)」(新潮6月号)、戌井昭人「まずいスープ」(同3月号)、藤野可織「いけにえ」(すばる3月号)、松波太郎よもぎ学園高等学校蹴球(しゅうきゅう)部」(文学界5月号)、本谷(もとや)有希子「あの子の考えることは変」(群像6月号)

 ◇直木賞 北村薫「鷺と雪」(文芸春秋)、西川美和「きのうの神さま」(ポプラ社)、貫井徳郎「乱反射」(朝日新聞出版)、葉室麟(はむろりん)「秋月記(あきづきき)」(角川書店)、万城目(まきめ)学「プリンセス・トヨトミ」(文芸春秋)、道尾秀介「鬼の跫音(あしおと)」(角川書店

(2009年7月2日 読売新聞)



★人気ブログランキング★
に参加しています。一日一回、クリックを…よろしくお願いします。尚、引き続き「コメント」も募集しています。しかし、真摯な反対意見や反論は構いませんが、あまりにも悪質なコメント、誹謗中傷が目的のコメント、意味不明の警告文等は、アラシと判断して削除し、掲載しませんので、悪しからず。
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ

山崎行太郎の「月刊文芸時評」(「月刊日本」6月号)より

というわけで、「文学界」新人賞を受賞したシリン・ネザマフィの「白い紙」を読んでみたが、やはり受賞するだけあって、素朴な文体に素朴なテーマの小説だが、よく出来た感動を誘う小説である。イラン・イラク戦争下の少年、少女の出会いと別れを描いているが、日本人の書いた最近の小説にはない、新鮮な魅力を秘めている。選考委員が、注目するはずで、受賞も当然ということになろう。イラク軍の攻撃の前に、隣町が全滅したために避難を余儀なくされた少年と少女の家族だったが、しかしたまたま少年の父親が、「名誉ある兵士」として戦争に参加していたことから、その父親が全滅寸前の戦線から逃亡したという知らせが密かにもたらされ、「逃亡兵の子」となったことを自覚した少年は、深く傷つく。その「ハサン」少年は、成績優秀でテヘランの大学の医学部を受験し合格するが、戦争への志願を呼びかける青年たちの激しい演説を聞いているうちに、医学部進学を勧める先生や母親を振り捨てて、兵士となり、戦場へ向かう。そして、それを見送る母親と少女……。 

トラックの後ろ、一番前の列に、兵隊の濃い緑の制服を着たハサンが座っていた。朝剃らなかったのか、アゴにうっすらとヒゲが生えていた。柔らかい茶色の髪に鉢巻を巻いて、細い指が、長い銃を握り締めていた。制服のせいだろうか、たくましく見える。母親がトラックの横で、チャドルで顔を隠して泣いているのにも拘わらず、ハサンは無表情で、真っ直ぐ前を向いている。目も表情もすべて乾いている気がする。手を振った。ハサンは無反応だ。居ることに気付いてくれているのか。「ハサン」と小さく呟いた。人ごみの雑音で、声が消えた。「ハサン」もう少し大きく言った。前を見ているハサンの目が全く動かない。「ハサン!」全力で叫んだ。周囲のざわめきが、一瞬だけ収まった。ハサンが茶色い目を人ごみに回らした。目があった。


 これは、戦争ならば何処にでも見られる平凡な出征兵士たちの風景だろうが、しかし作者は、ハサン少年の複雑で、微妙な表情をよく描いている。ハサン少年は、「父親が……逃げちゃった」という不名誉な現実が耐えられない。「俺は昨日まで戦争に行っている英雄の息子だった……」。しかし、小さい町だから、父親が逃亡したという噂はすぐ広がり、これから少年と母親には、「恥をかく毎日が……」が待っているだろう。だから、ハッサン少年は、母親が泣いても、先生や少女が引き止めても、行かなければならないのだ。 

どれぐらい経ったろう。誰かが、゛ヤーアッラー゛と叫んだ。いよいよトラックの列が動き始める。゛我々が勝つ!゛その人が大きな声で言った。トラックに乗っている人たちが大声で繰り返した。続いて゛神のため、国のため!゛と叫んだ。全員強く唱和する。そして、テレビで見る戦争の映像と共に、いつも流れる歌、゛イエ イラン゛を全員歌い始めた。強く切ない歌詞に膝が緩む。ハサンを乗せていたトラックが、大量の黒いガスを排出しながらゆっくり動き出した。(中略)ハサンの母親が路上の反対側で、顔をチャドルで隠して、肩が激しく揺れている。ハサンの表情が黒い排気ガスで曇った。

 単純と言えば単純な、素朴と言えば素朴な小説であるが、しかし、ここには、歴史や政治や国家や戦争を、声高に自信に満ちた語り口で語る者たちが、決して見ようとしない現実、あるいは見ることの出来ない現実が描かれていることを忘れてはならない。ハッサン少年の屈辱と哀しみと決断……。松浦理英子が選評で、「戦争や政治的動乱を背景にした小説が、平和時の日常を背景にした小説よりも、常に重く切実な問題を孕み深い読後感を残すとは決まったものではない。」と言うのは正しい。この「白い紙」は単純素朴な小説に見えるが、決して単純素朴な小説ではない。自己の心理の奥底を「突き刺す視線」が、ここには、ある。「自己を突き刺し、笑い、相対化する視線」(松浦理英子) である。 タイトルの「白い紙」の意味も単純である。「先生」がいつも言っていた言葉、「君たちの人生が白い紙のようで、自分でそれに何を書くかで、人生が変わる……」から取った題名である。この作者が、これから、日本とイランを股にかけて、どんな屈辱と哀しみと決意を描いていくのか楽しみである。それらは文学にしか描けない。ところで、この母親や少女の、あるいは少年の屈辱や哀しみを、単純に「私」の感情論として切り捨てて、「公」の論理を声高に主張するようになったところに左翼論壇、保守論壇を含めて論壇やジャーナリズムの思想的劣化と知的退廃の原因があった、と私は思う。