文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

■佐藤優と浅田革命と小林よしのり

佐藤優によると、浅田彰の『構造と力』が登場する1983年を境に浅田革命(ポスト・モダン革命)なるものが起き、日本の思想状況が一変する。そのポスト・モダン思想による日本の思想状況の変化を、佐藤優は、こう分析している。「日本におけるポストモダンは、浅田彰さんが『構造と力』(勁草書房、1983年刊)を出したときに始まったと思います。私が大学院の一回生でした。『構造と力』が世に出たことで「浅田革命」と呼んでもいい現象が生まれました。私は、1985年4月に外務省に入省し、翌年の夏、外国へ行ってしまった。日本に戻ってくるのは、1995年3月です。従ってポストモダンの嵐とバブルの嵐を知らなかったわけですね。そして日本に帰ってきたときに、日本の思想状況は驚くべきものに私には見えたわけです。これほどマスメディアの世界と知的なアカデミズムの世界が乖離している国というのは、世界でも珍しいのです。私が日本を出たとき、1986年の時点で乖離はそれほどありませんでした。ところが今や恐るべき乖離が起きているんですね。/私はポストモダンに対して極めて批判的です。というのは、周辺から物事を見るというのはけっこう、ラカンでもけっこうフーコーでもけっこう、デリダでもけっこう。おもしろい知的な物語を出して脱構築していくのはけっこう。/ただし重要な真実を忘れてはいけない。人間は物語を作る動物だということです。知識人の大きな仕事というのは物語を作っていく。大きな物語を作っていくことなのですね。ところがそこの責任を知識人が放棄してしまって、日本の知識人たちは自らの小さな物語のところでエンジョイしてる。/昨日(2007年3月10日)私はある学会でインテリジェンスの話をしてくれと言われて行ってきたのですが、それは非常に優秀で真面目な学者たちですよ。しかしあとから大学院生や助手たちがすり寄ってくると吐き気がするのです。新聞紙の上にクソがついたものを乾燥させて落として、そのあとの染みがどういう形かというような議論をしている。その類の議論ですので、インテリジェンスの実務をやっていた私からすると関係のない話なのです。ところがアカデミズムの中ではそこがマーケットになっている。そういうようなところを見るにつけ、このポストモダンの後遺症からどうやって脱け出していくかということがとても重要だと思っています。≫(2007年3月11日 「フォーラム神保町」より) さて、佐藤優の分析を前提に話を敷衍すると、浅田彰の『構造と力』以後に、日本ではポストモダン思想が猛威を振るい始めるが、それは「大きな物語」を脱構築して、小さな物語の中で遊ぶ、という思想なわけだが、その思想が左翼に浸透・蔓延し、左翼がポスト・モダン化することによって、左翼の専売特許だった「大きな物語」の構築という作業が、右翼・保守陣営に奪い取られていった、ということになる。そしておそらく、そこに登場するのが、「大きな物語」を分かり易く語るギャグ漫画家・小林よしのりや、テレビのニュースキャスター上がりの保守評論家・櫻井よしこという「右翼保守系似非文化人」という種族であり、これが右翼保守陣営で大きな影響力を持ち、「一億総保守化」「ネット右翼化」という現象をもたらしたということになる。浅田革命による「大きな物語」から「小さな物語」への変化。佐藤優が言っていることは、アカデミズムだけではなく、文学の世界でもというより、むしろポスト・モダン現象は文学の世界を中心にして起こった思想現象であって、この影響で、文学者たちが政治や思想という「大きな物語」を語ることが少なくなっていったが、その当然の結果として、かつては小林秀雄福田恒存江藤淳等が象徴するように、保守論壇は文学者たちによってほぼ独占状態にあったにもかかわらず、浅田革命以後、保守論壇で活躍する文学者が、西尾幹二福田和也等を例外として、極端に減少していく。その空隙に登場するのが、前記の小林よしのり櫻井よしこを筆頭にした「軽量級保守文化人」たちであり、彼等が、ポスト・モダン以後の保守論壇や保守ジャーナリズムを形成していったということになる。彼等は、「通俗化」や「単純化」、あるいは「平板化」「大衆化」を恐れることを知らないが故に、大胆に戦争や歴史や国民道徳の「大きな物語」を語りはじめ、同時に二元論的対立軸を作り、敵か味方かで言論を戦わせる「仮想敵ごっこ」を、朝日新聞日教組中韓、それに北朝鮮を相手に開始する。その時、彼等が使う言葉も、たとえば「反日」「歴史観」「国家観」…というように一元的に統一され、また話のテーマも「南京事件」「拉致事件」「沖縄集団自決事件」「竹島」「北方領土」…に統一される。その分かり易い、単純明快な、そして誰にでも理解されやすい素朴な「大きな物語」に飛びついて行ったのが、物語や仮想敵に飢えていた若者たちであり、「B層の国民」であり、日頃は「大衆」を侮蔑し、「大衆への叛逆」を語り続けていた西部邁だったということになる。その「大きな物語」の一つが、「改革のためには痛みに耐えよ」「構造改革なくして成長なし」「既得権益の打破」という大衆的メロドラマ、つまり小泉・竹中改革としての「構造改革」であり「郵政民営化」であった、ということも出来るが、小泉・竹中構造改革には反対だったという西部邁にしても、小林よしのりの『戦争論』には熱狂的に付和雷同し、ついには保守論壇をも巻き込んで、保守派大衆とともに『戦争論』の擁護論を展開している。小林よしのりの『戦争論』は小林よしのりのオリジナルではなく、その物語のほとんどが、「南京虐殺問題」を扱った部分を典型として、紋切り型の既存の物語の模倣・反復であり、『戦争論』それ自体が、一種の政治的な扇動を目的とした刺激的なプロパガンダ本的色彩を持っていた。これは、小林よしのりとともにこの時代の保守論壇の象徴的存在であった櫻井よしもそうであるが、この時代の保守言論人を代表することになる小林よしのりの、時代的な大きな特徴である、と言えよう。この『戦争論』は、伝統的な古典左翼の陣営からは、激しい批判を浴びたが、しかし、小林よしのりの「私=個」より「公=国家」を優先するという『戦争論』の論理を突き崩すことは出来なかった。すてに左翼的な、あるいは戦後民主主義的な「私」や「個」という論理が陳腐な物語化し、思想的にも空洞化していたからであろう。小林よしのりの「公=国家」の論理が破綻するのは、沖縄論やアイヌ論をめぐって、佐藤優や僕(山崎行太郎)との論争を通じて、つまり保守派内部からの批判に晒されてからである。



★人気ブログランキング★に参加しています。一日一回、クリックを。ご支援、よろしく願いします。尚、引き続き「コメント」も募集しています。しかし、真摯な反対意見や反論は構いませんが、あまりにも悪質なコメントは、アラシと判断して削除し、掲載しませんので、悪しからず。(↓↓↓)
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ