文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

緊急増刊「朝日ジャーナル」を読む。


かつて、「左手に朝日ジャーナル、右手に少年マガジン…」と言われる時代があったと言われているが、ほぼ同時代を生きたはずの僕でさえ、そういう言葉があったか、なかったか、正確には知らないが、いずれにしろ、かつて、「朝日ジャーナル」という政治・思想系の週刊誌があり、日本のジャーナリズムの世界で、それなりの思想的地位とステータスを獲得していたことは間違いない。週刊誌や月刊誌、そして新聞さえも、休刊や廃刊、そして某社などは会社自体が倒産寸前と噂される昨今だが、そういう時代だからこそ、「夢よ、もう一度」とばかりに、「朝日ジャーナル」が復刊となれば、それこそ、かつて「朝日ジャーナル」の黄金時代を知っている人たちにとっても、あるいは知らない人たちにとっても、近来稀に見るビッグニュースと言うことになろう。というわけで、「朝日ジャーナル」緊急増刊号が出たと言うので、さっそく、記念に買ってみたが、意外につまらなかった。見田宗介加藤典洋浅田彰、あるいは中森明夫秋元康辻元清美氏等が、コラムや対談で登場しているが、今更、こういう思想家になり損ねたような、中途半端な人たちの昔話や自慢話など、聞きたいとも思わないわけで、「朝日ジャーナル」としては、人気次第(売れ行き次第?)では、本格的な「朝日ジャーナル」復刊の話もないわけではなさそうだが、おそらく無理だろう。雨宮カリンや赤木智弘、あるいロスジェネ世代の「派遣村」や「プレカリアート」の話だけでは、雑誌は持つまい。深刻そうな話と言うのが、東大院博士卒のコンビニ店員や日雇い労働者というのも笑わせる。東大院博士卒のコンビに店員や日雇い労働者が、何故、いけないのか。職業や給料のことばかり考えている「学者予備軍」という話こそ、自己矛盾ではないのか。「学問や思想に生きる…」とは、職業や給料という小市民社会的価値意識から自由になることではないのか。西田幾多郎アインシュタイン、あるいは今西錦司吉本隆明氏等の例を考えてみよ、と言いたいところだが、止めておこう。そもそも、「朝日ジャーナル」の黄金時代と言われている、いわゆる「東大全共闘」の時代の「大学紛争」問題も、元をたどれば「オーバートクター問題」だったと言っていい、と僕は思っている。大学紛争の結果、東大院博士卒の「博士」が粗製乱造された上に、彼等、学歴しか売り物がない学歴病患者たちが、いっせいに全国の大学の教員として採用されるようになり、その結果、思想にも学問にも関心はなく、要するに学閥と人脈にしか関心はなく、思想や学問などどうでもいいというような、たとえば「東大博士号オタク」の小谷野敦のような、とんでもない似非学者が氾濫するようになったと思われる。たとえば「東大全共闘」の時代、つまり大学紛争の頃の文学的・思想的的巨人たちとは、吉本隆明であり、江藤淳であり、秋山駿であったが、彼等は、「東大博士号」とは何の関係もない。吉本隆明氏にいたっては、仲間や弟子たちが続々と大学教員となって堕落していくのをせせら笑いながら、自らは、「大学教員」になることさえ拒絶し続け、一民間思想家として生き抜いてきたという経歴を有している。「東大院博士」を売り物にし、「東大院博士」という肩書きでしか物を言えない時代、ここ10年、20年の文壇や論壇、あるいはジャーナリズムの思想的劣化、知的退廃の原因は、ここにもあるはずである。ところで、緊急増刊「朝日ジャーナル」には、鶴見俊輔氏とか柄谷行人氏とかいうような本格派の思想家たちも登場して、それなりの議論を展開してはいるが、やはりただ顔を揃えたという程度で、読み応えがない。いっそのこと、「柄谷行人特集」とか、「鶴見俊輔特集」でも組むべきだったろう。しかし、よく考えてみると、黄金時代と言われている時代の「朝日ジャーナル」も、所詮、こんなものだったような気もする。それにしても、あの悪名高い亡国のエコノミスト八代尚宏氏が、「大失業時代に日本的雇用慣行を打ち破れ」と言っているが、やはり朝日新聞だなあ、と思った次第である。

★人気ブログランキング★に参加しています。一日一回、クリックを。
ご支援、よろしくお願いします。
(↓↓↓)
人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブロへ