文藝評論家=山崎行太郎の『 毒蛇山荘日記(1)』

文藝評論家=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記1(1) 』です。

文章について、あるいは文体について。


拙ブログの文章や文体について、いろいろな角度から不平や不満を漏らす人、あるいは好意的な忠告も含まれてはいるだろうが、侮蔑的な罵倒にも近い批判的言辞を弄する人も少なくないが、中には、山崎行太郎は文芸評論家を自称しているくせに、日本語もまともに書けないのか…、と言う人まで出てくる始末だ。僕は、そういう人達が、何を期待しているかがわからないわけではなく、むしろよくわかっているが故に、敢えて、彼等にとっての「悪文」なるものを、意識的に、あるいは作為的に使っているのである。何故、悪文なのか、と不思議に思う人がいるかもしれないが、それは、学校で習う国語や作文の次元での話や、あるいは最近流行のリテラシーの次元の話ではないので、むしろ日本語の根本問題にかかわる問題なので、理解できなければ理解しないでもかまわないのだ。昨日の保守論壇の言説の知的貧困と思想的退廃の話と関連させるならば、要するに彼等は日本語を書くということ、日本語を読むということ、あるいは日本語で伝達し対話するということに無自覚であり、それ故に、各自の代表作ともむ言うべき「作品」と言うものがなく、単なる雑文の山を築くだけで、要するに、思想家、あるいは表現者として駄目であり、それとは逆に、僕がかねがね肯定的に捉え、高く評価している作家や思想家たち、たとえば小林秀雄三島由紀夫吉本隆明江藤淳柄谷行人等は、それぞれ独特の文体を持ち、ある意味では稀代の悪文の書き手たちであったが故に、日本語の歴史に作品を残している。小林秀雄は文章家であったとか、三島由紀夫の文章は美しい、などという、まったく根拠のない、根も葉もない俗説を未だに信じられる人は信じていればいいが、小林秀雄三島由紀夫もまた、日本語の凡庸な理念系の流れからは、大きく逸脱し、脱線している、いわゆる悪文の巧妙な使い手だった。文学や思想の本質は悪文である。悪文に対して美文という言葉があるが、美文とは、考えることを放棄し、考えることを抑圧した文章、つまり言語の本質としての対話(ダイアローグ)を喪失した、要するに誰にでも「わかる日本語」「物事を深く考えない日本語」なのである。井口時男という文芸評論家(東工大教授)に、『悪文の初志』という著作があるが、そこで井口時男は、永山則夫という「連続射殺魔」が、中卒のまま、集団就職で上京し、職を転々とする内に、連続ピストル射殺事件の殺人として逮捕され、死刑判決を受け、やがて処刑されるまでの過程で、獄中で、膨大な漢字を習得し、誤字、脱字、当て字を繰り返しながら文章を書く訓練と抽象的思考の訓練を続け、その結果としてマルクス主義に近づき、やがて『無知の涙』から『木橋』の作家へと変貌していく様子を描いている。永山則夫の書く日本語は、文字通りの粗雑で乱暴な「悪文」だったが、まさしくそういう悪文であるところに、独特の文学的営為や思想的営為があるということを、そしてまた、多くの文学者や思想家も、永山則夫のように日本語と悪戦苦闘しているということを、井口時男氏の『悪文の初志』は教えてくれる。我々は、日本語の「ひらがな」や「漢字」を家庭や学校で、無理矢理に、なかば強制的に覚えていくとき、暴力的とも言うべき知的感動を味わうのだが、その原初的な日本語体験を次第に忘れ、あたかも日本語なる言語体系を、自然に覚え、自然に身に着けたかのように錯覚するが、永山則夫の場合は、特に難解な哲学思想用語等の漢字を習得し、自由に使いこなせるようになっていく過程での知的感動と違和感を忘れることがない。文学や思想は、そこに存在根拠と存在理由がある。作家が日本語や文体にこだわる理由もわかるはずだ。保守論壇の面々の、わかりやすい、なめらかな「美しい日本語」に欠如しているのは、こういう日本語に対する感動と違和感である。今、一部で話題になっている作家の水村美苗氏の、日本語は普遍語としての役割を、つまり抽象的思考言語、あるいは学問言語としての役割を「英語」に奪われて、衰亡していくのではないのか、という『日本語衰亡論』に対して、長谷川三千子という保守系論客が、「水村美苗氏『日本語衰亡論』への疑問」を、「諸君!」に批判的な立場から書いているが、「御説、ごもっとも…」と思いつつ、長谷川三千子氏の文体が、平凡で、わかりやすいことに気がついた。長谷川氏は、「無知の知」を説いたソクラテスギリシャ語も一般民衆の使う現地語であり、デカルトの『方法序説』もラテン語と言う当時の思想的・学問的な「普遍語」に対する「現地語の逆襲」であったとか言って、日本語と言う「現地語」の未来を楽観しているわけだが、しかし、長谷川氏の「正論」は認めるとしても、長谷川氏の文章と日本語からは、そのような「普遍語」としての英語に対する「日本語と言う現地語の逆襲」の息吹は感じられない。長谷川氏の文体や日本語が、平凡で、わかりやすいからであろうか。水村美苗氏の『日本語衰亡論』の背後には、日本語と格闘した『続明暗』『私小説』『本格小説』等という作品があるが、長谷川氏の『バベルの謎』や『民主主義とは何か』等もまた作品と呼べるだろうか。僕には疑問に思える。日本語と格闘していない、わかりやすい日本語、美しい日本語、誰にでも通用する文体と美文、それが、「モノを深く考えない…」という昨今の思想状況や保守論壇の退廃と通低しているのである。永山則夫は、難解な漢字を次々に習得していくことによって、マルクスヘーゲルを論じ、自己の犯罪の根拠が階級的な貧困にあるということを学習していくのであるが、つまり難解な抽象的漢字を知らなかったが故に、階級的貧困が原因での連続射殺という犯罪行為を犯してしまったことを『無知の涙』と呼び、そこからの脱出を、膨大な漢字学習と言う小中学生的実践によって果たそうとしたのである。この日本語との格闘の過程が、そのまま文学であり、思想である。




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